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自分流塾「Xへの手紙」 Posted on 2022/11/26   

ここまで話してきたことの大事な要点としては「他人から批判されることが実はあなたの個性だったりする」ということである。
親とか友人から指摘される問題点の中に、実は自分が他者とは異なる個性の源がある場合が多い。
君はよくしゃべるね、と言われ続けてきた人が人気のDJやお笑い芸人になった例もあるし、内向的で人付き合いのできない人が絵画の巨匠になった例もある。
とにかく、誰かに何か言われて、それに傷ついて自己否定をすることがまず一番よくない。そういう他者と異なる自分の中に実は自分の才能が隠れているのかもしれない、と勘違いするくらいの自己擁護がむしろ大事になる。
偉大なる勘違いこそが、のびのびとした自分を育てるコツと言えるかもしれない。
かくいうぼくが最初にみんなと違うことに気づかされたのは、小学生の頃であった。
「道徳の時間」に「Xへの手紙」が行われた。
個人的には、魔女狩りみたいな授業だと思っていた。毎年、ある時期になるとこの「Xへの手紙」というのが行われたのである。
でも、そのおかげでぼくは本来の自分との和解へと至るのだけれど・・・。

自分流塾「Xへの手紙」



「じゃあ、いいですか。今から用紙を配ります。そこには、クラスの誰かの名前が書かれてあります。その人について、君が思うことを率直に書いてください。ただし、君の名前は書かないこと。というのは、君がそこに名前を書いたら、相手に気を使って本当のことが言えなくなるでしょう? だから、匿名で先生に戻してください。匿名でその人の欠点や良さを思う存分書くのです。それを一旦回収し、あらためて、名前が書かれた本人に渡します。受け取った者は自分が他者にどう思われているのかを知ることが出来るという仕組みです。いいですね、じゃあ、配りますからその人について、思っていること、気づいたこと、忠告、あるいは称賛でもいい、好きなことを書いてください」
ということで、用紙はまもなく回収されるのだ。
そして、残酷にもそれが今度は、各生徒の元へと届けられるのだった。
「辻君、辻仁成くん」
「はーい」
ぼくは席を立ち、先生の所へ行き、自分のことについてクラスの誰かが書いた「Xへの手紙」を受け取るのだった。その時、書いたやつはほくそ笑んでいる・・・。
小学3年生くらいから、高学年まで毎年この授業があったが、これが憂鬱でしかたなかった。
というのは、ぼくに戻されてくる誰かからの手紙には、長くて2,3行、短くて1行程度のコメントしか書かれていないのであった。
そして、だいたいこんな風なメッセージが添えられていた。
「辻君って、めっちゃ変わってるよね」

自分流塾「Xへの手紙」



これで傷つかない子供がいるだろうか? 
これはその後、日本で流行るネットの匿名攻撃のようなものの基礎作りには成功したはずである。道徳委員会の皆さん、おめでとう!
今もこういう倫理や道徳の授業が行われているとは思えないが、ぼくが小学生だったころにはこういう人格否定ゲームのようなことが道徳だったのである。
ぼくは毎年、傷つき、クラスの中のどこかに潜む「Z」の存在を恐れた。
みんながこう思っているのだろう、と考えて人間不信に陥ったりした。
それが毎年続いているうちに、能天気なぼくはそれを「ぼくの個性」と位置付けるようになっていった。理由? 単純にそうしないと生きていけないからである。
「どうせ、変わり者というレッテルを貼られているのだから、変わり者として生きる道を探そう」
ぼくは会社員になることを諦め、ロックの世界へと突き進むことになった。
クラスメイトと仲良くするのをやめて、学外の音楽好きな落ちこぼれたちのサークルに出いるするようになり、バンド活動が本格化した。小説もその頃から書きだした。
自己紹介の時にはあえて、
「変わり者の辻です。よろしくね」
と自虐的な挨拶をしたり・・・。
しかし、その経験によってぼくは、自分が他人と違うということを、つまり、その違いを自分の個性と見極めることが出来た、のだった。
人と違うことは、ある種の「美徳」なのだ、と思わないと生きていけなかった。出来たというか、生き残るために、自分をそう導いたのである。
その一方、そういうことが原因で不登校になった子もいた。或いは、自殺をした子もいたかもしれない。そういう新聞の記事を読んだことがある。
「Xへの手紙」というものを生み出した社会の残酷性がその後、今のネット社会における誹謗中傷ムードを作り上げたという皮肉であった。
負けないために、ぼくはいつも自分に言い聞かせている。
「みんなと同じになることは、つまり、この世界に埋没するということなんだよ」

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