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落ち着かないあなたへ Posted on 2025/04/25 辻 仁成 作家 パリ
「落ち着いた」と人は問題がある程度解決した時に言う。
そもそも「落ち着く」とぼくらがつかう日本語の語源はなんだろう。
平安時代に描かれた回想録の更級日記に「落ち着く」が現在の意味ですでに使われていたようだ。
作者は、菅原考標女という名前の女性である。その人が、13歳から、52歳までの生涯を回想した、まあ、エッセイかな。
夫の死の悲しみなどがつづられているらしい。残念ながら、ぼくはちゃんと読んだことがない。
この中に「落ち着く」が出ているという。
ご主人が亡くなられて、落ち着かない日々の中にいた考標女さんが、その悲しみを落ち着かせるために、書き続けたのかもしれない。いろいろと遠い時代を想像するしかないが、人間はそんな頃から、心を抱えて苦悶して生きていたのだなァ、と思うのである。
落ち着くの「オチ」を落語の「オチ」とかけたという説があるけれど、ということで、日本人は平安時代以前から「落ち着く」を使っていたことになる。
心がさわさわ不安定で、浮いて自分ではどうすることもできないような状態から、すとんと地面に落ちて、安定しなかった心が着地で来たことを「落ち着く」と表現したのかもしれない。
落ちるは落下で、着くは到着だから、
地面におりて、大地の安定感を感じて、心を落ち着かせた、ということから、来ているのかな、と想像をしてみることが出来る。
だからか、ぼくは「落ち着かない」時に、床に手足を広げ、大の字になって寝ることがある。
空を見あげ、背中で大地のエネルギーを受け止めていると、なんだか、すとんと心が安寧を覚えたりするのである。
「もう大丈夫、落ち着きました」
と人が言う。
パニックになっている人に「落ち着け」というと、目が覚めるような顔で、ふっと現実に戻って来る人がいたりする。
落ち着くという言葉は、もはや、呪文のような言葉であり、ちゃんと言霊が存在する稀有な日本語だと言えるかもしれない。
この言葉を持っているだけで、日本人は、よかったじゃないか。
「落ち着かない」
「じゃあ、ひとまず、落ち着こう」
そうだ。落ち着くのがいい。
ぼくは自分が落ち着かない時は「落ち着きました」と過去形で、三回言葉にしている。
不思議なもので、過去形にすることで、「落ち着く」は成就するような気分になる~不思議だ。
「落ち着きました」
「落ち着きました」
「落ち着きました」
ぜひ、落ち着かない時に唱えてもらいたい。
後悔なんて、百害あって一利なし、なのだ。
命をかけてやらなきゃならないことなんて、ないのだ。
ストレスを一生抱えて生きていくことは不可能なのだ。
だから、落ち着きましょう。
焦らず、泰然として、今日を生きてほしい。
ぼくはもう、落ち着いています。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。