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自分流塾「戦わずして相手を負かす。これこそが無手勝流である」 Posted on 2022/02/06 辻 仁成 作家 パリ

誰にも教わらないで獲得した独自の方法を自己流とか我流と表現する。
ぼくも我流が多いけど、我流だけでは行き詰まる。
自分流という方法は、我流や自己流とは少し違うとぼくは考えている。
きちんと学んだり経験を積んだりしたものが、つまり、誰かから教わったこと、学校や社会で学んだことをベースに、そこから発展させて、自分なりに新しい解釈や、新しい方法を編み出し、自分独自のやり方を確立していくことを「自分流」と呼びたい。
だから、究極、自分流は我流ではないのだ。
基礎をしっかりと学んだものが、その枠に満足できず、そこからもっと大きな可能性へと踏み出して掴んだ独自の手法を、自分流と名付けたい。



ぼくはそういう意味で、音楽も、文学も、自分流かもしれない。
ギターを習ったり、文章の書き方をみんなと同じように小中高で学んだ。
学ぶことで終わらず、発展させた時に自分の色が出てくる。
たぶん、ぼくのギターの弾き方はぼくにしかできない独特の弾き方になっている。
まず、ピックを使わないし、最近はスペインを旅して出会ったスパニッシュギターの影響を強く受け、ギターを叩いてパーカッションをやりながらコードをおさえる、辻スタイルが出来上がってきた。
これに、口でやるトランペット。
口トランペットと名付けているけど、息子がビートボックスに傾倒していた時に真似て始めたら、口でトランペットのような音色を出せるようになった。
バンドじゃなくても、ギターと声だけでリズミカルなバンドサウンドが出せるようになり、これでライブをやったりする。
まさに自分流なのであるが、いきなり出来たわけじゃない。
40年近い歳月がかかっている。壮大な流派なのであ-る。笑。

参考映像はこちら☟
https://youtu.be/7iTSSt1EjZM



ぼくの文学も、自分流なので、デビュー時はいろいろと言われたけど、30年も作家をやっていると、それがスタイルになって、正統派の人の文体が、ぼくにはちょっと古臭く感じてならないのだ。
日本語自体が常に進化しており、言葉は生きているので、その時代時代の言葉が存在するし、回帰したり進歩したりしながら、自分流はここでも深みを増していくのだと思う。
若い頃は好きな先輩作家の本がぼくの先生だった。
そういう偉大な作家を真似ることから、ぼくの文体はスタートしたと思うが、ある程度、経験と修練を積んだ後、力を抜いて書くことを覚えるようになり、そのうち、自分の文章の流れというものが出来上がってきた。
それはまさに自分流の真骨頂じゃないか、と思う。
とくにぼくの場合は、映画も編集作業まで独学で習得し、最近の作品は編集マンを使わず、自分で編集までやるようになった。
ビジュアルのこの経験は、小説にフィードバックし、映画的カットのつなぎ方を小説に持ち込む方法へと繋がり、つまり、時間の入れ子によって小説内に映画的な構造を持ち込むことが可能となり、小説内時間移動が得意技となった。
今書いている作品は、時間そのものの概念を捨てた全く新しい手法に挑んでいる。
たぶん、成功すると思うけど、時間はかかる。
毎日、コツコツ、自分流を極めているところである。



誰かに教わったことを自分なりに解釈し、そこから経験の中でそれを拡大させ、自分流というものは極まっていくのだ。
むやみやたらの我流だけで終わらせるものとは違う。
学んだこと、経験したことへのリスペクトがあり、そこから飛躍的に新しい解釈で表現していく時、自分流の門が開く。
ところで、似たような言葉に「無手勝流」(むてかつりゅう)というのがある。
この言葉には二つの意味がある。
よく使われるのは自己流的な意味の方だが、もう一つこの言葉のそもそもの逸話が面白い。
戦国時代に塚原卜伝(つかはらぼくでん)という剣豪がいた。
ある日、渡し舟に乗っていた卜伝が突如、同船していた者に、真剣での勝負を挑まれた。
とっさ、卜伝は、船の上ではまっとうな試合が出来ないので、岸に降りるよう促し、相手を先におろし、自分は持っていた釣り竿で船を沖へとすぐにだした。
呆気にとられている相手に卜伝は「戦わずして相手を負かす。これこそが無手勝流である」と言い残すのである。



卜伝はこのような無意味な戦いをする気がなかったのであろう。
自分が命を懸ける戦いじゃない、と思ったに違いない。
あるいは相手は血気盛んな若者で、そのものの命をここで奪うのは自分の生き方に反すると思ったのかもしれない。
剣豪であれば次々にこういう試合をふっかけられたに違いない。
無駄に命を奪い合うこのようなものは、機転を利かせて、交わすのも勝利の方法であると剣法の達人は考えた。賢い判断だということである。
無手勝流とは、武器や道具を使わないで、自分流の方法で相手に勝つことを意味するようになるが、現代ではここから転じて「自分勝手な方法」として使われるのが一般的になった。
けれども、その言葉の奥に、頭を使って無駄な戦いをせずに場をおさめ人生に勝利する、という意味があることから考えると、この言葉は自己流とか我流より、数段上の智慧が含まれているように思う。
このような複雑怪奇な人間関係の時代、ぼくらに必要なのは、無手勝流のような自分流なのであろう。
くだらない誹謗中傷など相手にせず、広大な海へ、釣り竿で岸辺を押して出てしまえば、川岸で騒ぐ悪口好きな世間と一戦まみえずに済む。
賢い考え方である。

自分流×帝京大学

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posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。