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自分流塾「世界を意識した最初の頃」 Posted on 2024/02/19 辻 仁成 作家 パリ
今は、もう紛失してしまったが、一本のカセットテープがあった。
そのカセットは、たぶん、引っ越しなどの際に、捨てられてしまったのだと思う。
ぼくが19歳の頃に、自宅に音楽仲間を集めて、彼らに語りまくる説教のテープなのだ。
30代の頃、たまたま、それを発見し、再生して、ぼくは大笑いをした。
とにかく、熱血で、饒舌で、夢の塊なのであった。
仲間が4,5人いるのに、彼らはほとんど誰もしゃべっていなかった。というか、ぼくがしゃべり倒すものだから、誰も口をはさめないでいる。
ぼくひとりが、音楽がこれからの世界にどんなに大事な表現手段になるか、どういうグループにするべきか、どんなメッセージを人々に伝えないといけないのか、とにかく、世界だ、世界に出ないとダメなんだ、音楽は言語だから音楽を持てば世界に出ることができるはずだ、など、えんえんとしゃべっていたのである。
訊いていて、恥ずかしくなるくらいのヤング・ドリームで、よく、こんなにしゃべることがあったねー、と感心した。
残念ながら、そのテープは消えてしまったし、なぜ、誰が、それをなんの目的で録音したのかさえ、わからないけれど、のちのぼくがそれを聞いて赤面するほどの勢いがあったのは事実であった。
ぼくは、たぶん、自分に向かって、熱弁をふるっていたのかもしれない。となると、録音したのは、ぼく自身であろう。
自分をふるい立たせることが、たぶん、大事だったのじゃないか。
小学生の頃、北海道の帯広という街に住んでいた時、ぼくは、ラジオから流れてきた洋楽を聞いて、覚醒した。
そこは、冬になるとマイナス30度にもなる氷の世界だったが、小さなラジオから、飛び出してきたジャズやロックミュージックが、幼いぼくの心を震わせたのだった。
毎晩、齧りつくように、ラジオに耳を傾け続けた。
丸い白いラジオだったが、それを両手で掴んで、ここに世界がある、と思った。
なんだか、わからない衝動にかられ、ぼくは勝手に世界という終わりのない空域への出発を開始したのだった。
日仏を飛行機で何往復もする今現在のぼくだが、今もその時のイメージをよく覚えている。何か、大きなビルの外付けの階段をのぼりながら、どこからか差し込んでくるまばゆい光の中を行く人々を見つめている、しかも、異国の絵であった。
そこに行きたい、と真剣に思ったわけだが、50年以上前のぼくの家は原野の中にぽつんと立っているような建売住宅で、周辺にビルなどなかったし、そもそも、ニューヨークの摩天楼のことさえ、当時はよく知らず、そのイメージがどこから来たものか、今もよくわからないのだった。
でも、ぼくは誰かを捕まえては、熱く、語っていた。世界へ、出たい、と。
親戚の子供たちを集めて、あるいは同級生を集めて、ぼくは夢中で語っていたのだった。
何をあんなにむきになって、語ろうとしていたのか、はっきりとはわからないけれど、迸るエネルギーがあって、自分をおさえることが難しかった。
でも、誰かにどこか知らないところに世界があることを語るのが好きだった。
今、フランスで暮らしているのは、もしかしたら、その時の世界を求めて、ここにいるのかもしれない。
地球は丸く、世界には限りがあり、分断され、人間が多くなりすぎて、あらゆることに限界が見えるようになってしまったこの世界の中にいても、まだ、終わりはない、とぼくはどこかで思っているし、今からでも、はじめられる、遅くはない、と思っているのだ。
ずっと、新人でい続けたい、という気持ちが薄れないのは、昔から変わらない。
変わらないものは、自分の中にこそ、あった。
たぶん、ぼくがみんなに語りたかったのは、可能性のことじゃないか、と思う。
可能性は、限りなくあって、その可能性がある限り、人間は人間として、生き続けられるのじゃないか、ということかもしれない。
なので、AIの時代になっても、ぼくはぼくらしい空想を止めないつもりでいる。
その時代にふさわしい、無限の空想域は必ずある。
人間にとって、可能性を閉ざさないことこそが、希望なのである。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。