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自分流塾「幸せとはなにか?」 Posted on 2022/06/20
幸せとは何かと考えた。
どの瞬間に自分は幸せを感じているのだろうか、と自問してみる。
幸せって失った時にいつもあの時は幸せだったと気づいたりするものなのだ。
「後悔先に立たず的」なものだから、なかなかその瞬間に、ああ、今、僕は幸せなんだな、とは感じにくい。
だから、時々立ち止まっては、自分の幸せについて考えてみるのが賢明であろう。
そうだ、時々、自分の幸福度を点検してみるのは悪くない。
ちなみに、ぼくはシングルファザーなので、息子のために毎日、食事をつくる。
なんだかんだ、もう、9年間も朝昼晩と料理をしてきた。
しかし、もしかすると、これは幸せなのかもしれない、と僕は思った。
別に「美味い美味い」と言って食べてくれるわけじゃないけれど、なぜか、食わせてやりたいと思う時の自分の行動に、ささやかな幸せを感じる。
若い頃、僕は仕事上の達成感へ向かって邁進していたように思う。
結果とか成果とか目標に到達することだけを人生の醍醐味と思っていた。
でも、結局それが僕を幸せにさせただろうか。
振り返ってみよう、すると、そうじゃないことが分かってきた。
お金がすべてじゃない、とは言わない。
お金がなければ生きてはいけないけど、必要な分だけあれば十分なものが、お金だったりする。
長く生きていると、そういうことにも気が付いてきた。
この、気づき、こそ、幸福なのかもしれない。
真実、お金では買えないものもあって、負け惜しみじゃないけれど、丁寧にダシをとったみそ汁の染み入る旨さなんかは、日々の実直な人生でしか、手に入らないものなのである。
ああ、今日も美味しい、と思える今日を人間は見失いがちだけれど、当たり前に訪れる何気ない幸せに勝るものはない。
そういう幸福を失った時に、人間は、ああ、あれが幸せだったのか、と気づかされるという次第である。
人生を振り返ることのできる味わいに、時々、どうしようもないくらいの幸せを覚えることが出来るようになった。
そろそろ、ぼくの息子は巣立っていくのだけれど、その後、僕は一人になっても、きっと丁寧にダシをとり続けるに違いない。
自分一人になっても、きっと心を込めた食事を心がけるのだろうな、と分かっている。
そもそも僕は米を研ぐのが好きだし、炊飯器から立ち上る湯気なんかをじっと見つめるのも嫌いじゃない。
アパルトマンのそこかしこに美味しい香りが立ち込めることも幸せだと思うようになってきた。
本棚から好きな本を取り出して、窓際の椅子に腰かけ、印刷された文字を差し込む午後の光りの中で静かに眺めることも好きだ。
仕事の合間の一杯のコーヒーだとか、愛犬との散歩だとか、懐かしい友だちとの電話でのやりとりだとか、ふとした瞬間に、ぼくはお金では買うことのできない、積み上げられた幸福を手に入れることが出来る。
そういう瞬間、間違いなく僕の口元は緩んでいる。
息子が出かけた後、ぼくは息子の部屋の掃除をする。
普段は自分でやらせているのだけど、学業が忙しい息子に、時間の余った父親がしてやれることは掃除くらいのものだ。
息子が幼かった頃にいつも抱いて寝ていた熊のぬいぐるみがベッドの上に忘れ去られたもののように放置されていた。
ぼくは掃除の手をとめ、ぬいぐるみを掴んだ。
「やあ、ちゃちゃ、久しぶりだね、元気だったかい?」
赤ん坊が生まれた時からずっと我が家の一員なのである。
ぬいぐるみだけれど、ただのぬいぐるみではない。
ぼくと息子が二人きりで生きるようになった時、10歳だった息子にとってこのぬいぐるみは生きていた。
そして、息子の涙をぬぐっていた。
あの頃、掃除に入った息子の部屋のベッドの上で、濡れたちゃちゃをぼくはよく発見したものだった。
失ったもの、壊してしまったもの、欠けた思い出、でも、それらも振り返ると、間違いなく、それらは、幸せの一部だったりするのだ。
何かを恨んで、憎んで生きることも出来るが、そういうことを放棄した時に現れるのが幸せなのかもしれない。
でも、一番僕を幸せにさせるものは「家に帰る」時なのだ。
帰る場所があるということは僕を間違いなく幸せにさせている。
僕が好きなベッドや、僕がいつも料理をするあのキッチンや、ギシギシと歩くたびに音が鳴る古い床とか、書棚に陣取るアンティークの人形とか、幼い頃の息子の写真とか、集めた古い書物だったり、そうだ、ギターとか、どんな時も自分とともに在ってくれたいろいろなものたちが待つ家に帰れることの幸せといったらない。
外で仕事をして、くたくたになった後、でも、もうすぐ自分の家に帰ることが出来る、と思うと嬉しくてしょうがなくなる。
日々というのは矢のごとく過ぎていくので気が付かないことも多いけれど、時々、ぼくは立ち止まって、自分の幸福を再確認しているのである。
この何でもない毎日、何と愛おしいことであろう。
朝、息子を送りだしたら僕はカフェに行き、きっといつものコーヒーを飲むに違いない。その時、僕は絶対に微笑んでいる自信がある。
それを想像できるこの瞬間こそ、たぶん、幸せなのだ。
毎日を丁寧に生きることでしか、ぼくらは自分を幸せになることが出来ないのではないか、と気が付いた。
そういうささやかなものこそが、幸せの正体なのである。
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