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自分流塾「あなたのことを雑に扱う人がいたら、あなたがとるべき行動」 Posted on 2024/05/20 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、どうしてこう人間という生き物はいともたやすく横柄なることができるのだろう、と思う。
大会社の社長さんという人たちとこれまでに数人、会ったことがあるが、素晴らしい人もいる反面、絶対君主のように他を人間と見ないような絵に描いたような最悪な人物もいて、それは別の意味でいい勉強になった。
人間は頂点に立つと、何か自分も一人の人間であることを忘れる生き物なのだなぁ、と偉そうにしている大社長を見ながら、ぼくは心の中で思っていた。
偉くなれば偉くなるほど、実る稲穂のように頭を下げるような絶対君主というのはいないのかもしれない。自分以外の人間など、何とも思わなくなるので、敵国に攻撃され捕まりギロチンにかけられるまで、自分の非を認めないのだろう。
これはたぶん、逸話だと思うが、古代中国に堯という帝王がいた。ある日、帝王は、自分が統治する国のはずれで、農家の老人が「帝の力がなんであろう。居ても居なくてもおなじことさ」と楽しげに歌っているのを見た。
彼が恐ろしい絶対君主ならば、その場でその老人は切り捨てられていたことであろう。
ところが、帝王・堯は逆で、老人のその歌を聞いて、天下が平和に治まっている事を悟った、とされる。
人々が安楽で人生を楽しんでいる 鼓腹撃壌を喜んだ。
そういう心の国のトップや指導者がどのくらいいるのだろう、と考える。
同じ星で生まれ、権力やお金があるだけで、人を人と思わず、力で弱いものを支配しようとする人間もまた、いつか滅びるのである。
ある限られた時間の中で、人間は共生をしているのに過ぎない。
権力を持つことで勘違いに走る独裁者もいれば、帝王・堯のような寛大な一生を送る人徳者もいるし、どちらにせよ、死を免れることが出来ない。
その死の際に、口元を緩められる一生こそ、お金に変えられない徳というものではないだろうか。
ぼくは年下にもだいたい敬語を使うようにしている。
ぼくがため口で話をするのはごく限られた人だけだ。
むしろ、敬語を使わないで話す相手は本当の友人だったりする。
でも、ぼくの考え方として、自分への戒めもあって、相手が20代の青年でも、仕事をお願いする立場なのだから、敬語で依頼するようにしている。
もちろん、最初だけだけど、心が通じ合い、相手のリスペクトを感じることが出来た時から、君付けにかえることもある。
映画とか、音楽の現場ではだいたい、あっという間に、君付けに変わる。
ぼくはこの君付けに変わる瞬間が好きだ。これを信頼と呼んでいる。
時々、どうしてこうも偉そうにできるのだろうというおじさんにエレベーターの中とか空港とかバーとかで出くわし、いきなり、横柄な態度で、はじめてあったぼくに、「ほら、そこをどけよ、ぐずぐずするなよ」などと言われるのだけど、なんか違うな、と普通に腹が立つことがある。
だいたい、そのおじさんというのも、たぶん、ぼくが若そうに見えるから(たぶん、変な恰好をしているし、その身なりとかから判断をして)偉そうにするのであろう。
ぼくが短髪で仕立てのいいスーツを着ていたら、そういう横柄な態度をとるだろうか?
ぼくがその人より、うんと年上だとわかったら、もう少し丁寧な言葉をつかうに違いない。
しかし、身なりとか年齢で対応をかえるのはどうだろう。
そういうのが嫌だから、ぼくは丁寧な言葉で人と接するようにしている。横柄な自分に会いたくないのだ。
自分が、「ほら、そこどけ」みたいなことを口にすることを想像したくないし、天に唾を吐くようで、本当に、嫌なのである。
なので、誰とでも、最初は、礼儀ある、一定の距離を保つよう心掛けている。
何を基準に人間は偉そうにするのだろう、と思うが、そういう横柄な大人にはなりたくない。
ところで、ぼくのような年齢になっても、雑に扱われることが結構ある。
先生、先生と呼んでくださるのだが、心の底からそう思ってない人もいるので、「すいません、先生というのはやめてください」と言うようにしている。
昔、大学で教えていた時も、生徒たちに「先生の使用不可」宣言をしていた。
それでも、心から「先生」と呼んでくれる子はわかるので、それは受け止めるようにしていた。
言葉だけの先生ならば、京都に行くとそこら中が先生だらけで、「せんせい、せんせい~」と声が飛び交っている。
ありがたくもなんともない。先生と言われるのを喜ぶ人もいるということである。
この「先生」という言葉は、本当に自然に本来出るべき言葉で、敬意がなければ空っぽのことばなのである。
なんでもかんでも、誰でも彼でも、先生だとは思わない。ぼくは作家になったころ、同業者の先輩に対しても先生という言葉はあまりつかわなかった。
心から尊敬する人だけ、先生と呼ばせていただいた。それは今も変わらない。
話が逸れたが、雑な対応をしてくる人とは仕事を控えるようになった。
まあ、当然のことであろう。
しかし、新卒の若者は、そうもいかない。
そういう偉そうにする人間とも最初の頃は仕事をしていかないとならないのが、人生というものだ。
その時は、人のふり見て我がふりをなおす、題材にするのがよろしい。
こういう大人にはならないでおこうと、その偉そうな人物を見て、学べばいいのである。そこを目指すのは愚かである。
人間関係全般に言えることで、礼儀がないものに礼を尽くす必要はないので、横柄な相手だったら、話が深くなる前にさっと立ち去るようにしている。
それは仕事だけじゃなく、人間関係でも一緒だ。
友人とか恋人であろうと、雑だな、と思ったら心は冷める。
当たり前のことであろう。
人間というものはリスペクトしあってこその付き合いで、リスペクトがない人と素晴らしい人間関係は築くことが出来ない。
会社員の経験がないから、会社だったらそうもいかない、という意見に反論は出来ないが、でも、会社員だからこそ雑に扱われたら腹が立つだろうし、優良な会社であればそういう相手と仕事はしないはずだ。
雑な対応をするところと仕事をしなければならないとして、そこからどんな生産力が生まれるというのか。
逆に、雑な相手しかいない会社なら未来はないので、ぼくだったらやめて、自分を必要としてくれる環境を探すに違いない。
そもそも、その人に、リスペクトがあるかないかということは、すぐにわかることだ。
ぼくは自分のリスペクトが足りないなと思うと反省をする。
人それぞれの持ち味というのか、良さを見つけてそこを評価する時に人間というのは本気で動くのである。
いいところは一緒に褒め合う。悪いところは一緒に直していく。
うぬぼれず、今日も、泰然と行け。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。