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自分流塾「生まれた瞬間を誰も知らず、死んだ自分を誰も見ることもできず」 Posted on 2024/09/28 辻 仁成 作家 パリ
人間はだれも、自分が生まれた瞬間の記憶を持たない。
それを知っているという人は、誰かが撮影したビデオを見て、知っているだけに他ならない。
そして、同じく、人間は自分の死を目撃し続けることが出来ない。死んだ自分を見ることはない。幽体離脱したという方もいるけれど、それはちょっと、別の話になるので、横に置いておきたい。
しかし、すべての人間は、自分が生まれ、いずれ死ぬと思っている。それは、地球がまるいということを知っているのと一緒で、地球が丸いのを見たことがない人間は、この情報をあたかも事実のように、親とか学校で教えられ、信じ込み、地球はまるいと決めつける。飛行機に乗ると目的地に着くので、疑うことすらない。
でも、まるい地球を見たことはないはずだ。
つまり、固定概念で、人間は人間の一生を限られた時間の中に規定することに成功している。
生まれて、死ぬまでを、一生という。
「どうせ、死ぬんだから、精一杯生きよう」
とぼくもよく言うので、一生、というものは有限である、と認識しているようだ。
しかし、生まれたこともわからないし、死ぬ自分をみとることができないので、自分の生死に関しては、他者の生死を見て、自分もそうなるのだ、と思って、一生をそういうものだと決めつけていることになる。
それは、ある意味正しいが、もしかすると、違っているかもしれない、と気が付いてきた。
「いや、もしかしたら、ぼくは死なないのではないか」
と思うようになってきたのだ。
つまり、ぼくがある日、病にかかって、死へと向かいはじめたとしても、呼吸器が外され、死んだとしても、その死んだぼくを、ぼくが確認することは一生できない。
これが、一生の正体であり、死の現実である。
同じように、ぼくはすでに物心がつき始めた頃には、生まれており、本当にこの世に、生まれた瞬間があったのか、どうか、親の言葉を信じることでしか、確認はできない。
「辻さん、大丈夫ですか?」
とあなたは心配しているかもしれない。
そこで、もう少し、このことを突き詰めてみよう。われ思うゆえにわれあり、とフランスの思想家、デカルトは言った。彼にはまちがいも多いので、個人的には好きではないが、この言葉は、実に象徴的である。
自分を思う自分がわかることを「生きる」というのであれば、自分がわからなくなり、自分を思えなくなりだした時に、人間は頭の中に築き上げた一生から外出しはじめることになる。
ということで、今、ぼくは、自分が死なない可能性があることを、身をもって実験中なのである。笑。
自分で、自分の死を認識できないのであれば、人間は死なない、ということにならないか、と思うようになった。
物心がついた頃からずっと、死後の世界という強迫のような固定概念に人間は支配されることで、今を十分に堪能できないばかりか、死を出口と思って、行動をよぎなくんされている。
青春とか老後という言葉に振り回され、もう若くない、とか、老後が心配、と思うようになって、月を歩いた人間が眺めたという青い地球のイメージにすがっている。
でも、人はだれもが、自分が死んだ瞬間の自分、直後の自分を見ることはない。見ることが出来るのは、すべて、他者である。
自分が、自分の死を、知ることもない。
見ることもなく、知ることもないのに、それを恐れるのは、なぜだろう。
誰かが恐ろしい情報を「死」に置き換えたがためである。
死を、人間におけるそういう出口と決めたのは、昔からの言い伝えに過ぎない。
おそらく、それだけが死ではないはずで、死をそこまで恐れることも必要ではなく、死を悲しいものだと決め込むのはあまりに人間的な哀れな割り切り方じゃないか、と思う。
生まれたことも、死ぬことも知らない。それが実は人間の一生なのである。はじまりも、終わりもない、のだ。
ぼくは、現在、自分の一生を持って、この命題、もしかすると、難題と向き合っている。
誰もが思わ死は人生の終わり、という、固定概念は間違えているのじゃないか、とうすうす、想像をして生きているし、それを解明してみようとさえ、思って生きている。
人間の可能性の話かもしれない。
固定概念を捨て、自分を悟ることが出来るよう日々を精進していくことで、この一生の意味を習得できるのではないか、と思っているのである。
では、人間とはなんぞや。
一生とは何か。
実際は、無限の時間をぼくらは持っているのに、時計によって、規定された時間内で生き切ろうとすることで、大事な一生を限定してしまっているのだ。
「時間がない」
というのは、間違いだということである。
時間は、人間が、想像し、作るもの、なのである。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。