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自分流塾 「ラッキーの連続が何もない今日を作る」 Posted on 2024/10/24 辻 仁成 作家 パリ
たまたま、車からおりかけていた時、後部シートから出た人がものすごい勢いで、ドアを閉めた。
ぼくは車から身を乗り出していた時で、たまたま、自分の手をそのドアの淵に置いていた。
バン、とドアが閉まった時、重たい鉄の扉が、ぼくの爪をかすめた。
背筋が凍る思いがした。
ドアを閉めた人も注意せず、ドアをしめたので、ぼくの叫び声に、驚いていた。
しばらく、空気が止まった。
もし、そのまま、重たいドアに挟まれていたら、指は折れるか、切断されていたかもしれない。
幸運なことに、ドアは爪先を掠めただけで、怪我は一切なかった。
その日から、今日まで、そのことを何度か、いや、毎日のように、思い出している。
一歩間違えれば、という言葉があるが、一センチ間違えていたら、ぼくは一生ギターが弾けなくなっていた可能性がある。(左手の指だった)
指を切断していたあとの人生と、なんともなかった今の人生には、驚くべき程の差がある。背筋が凍った後、あれは何のメッセージであろう、と考えるようになった。
毎日、九死に一生を得た、理由について、考えを巡らせている。
けさ、三四郎と散歩をしていた時、三四郎が狭い木立を抜けようとしたので、慌てて追いかけたら、木の枝が、ぼくの頬をひっかいた。
目のすぐ一センチ下であった。皮膚に傷ができたが、もうちょっと上だったら、黒目を直撃していたかもしれない、と思い、ドアのことを、思い出した。
太い枝で、なぜ、あんなふうにむち打ちのような勢いで、ぼくの頬にぶつかってきたのか、慌てていたからわからないのだが、でも、結果として、ぼくは今、この日記を書くことが出来ている。
幸運だと思って、終わらせてもいいが、しばらく、広場の中心で、これらのことを、思い返してみた。
もしかしたら、今頃、また、眼医者か救急病院に行かないとならなかった、わけだから。
運、不運という言葉があるけれど、ぼくたちの一生は、ある種の誤差で、この運と不運を通過し、時には、大事故に巻き込まれてしまう不運にぶつかることも起こりえるわけである。
繋がっている指をもう一方の手で掴み、胸をなでおろすだけではなく、指を失ったかもしれないもう一つの未来、たとえば、事故の一週間後、一年後、十年後を想像し、人生の意味を再考してみるのだった。
普段、目の前にある普通の幸福というものに、改めて感謝を覚え、お金では到底買うことのできないものが、人生のそこかしこにあることを、思い出した。
逆を言えば、日々をなんとか生きられていることの毎日は、偶然という言葉で、押しやってはいけないラッキーの連続なのかもしれない。
何もない、つまらない、面白くない、と思っている毎日は、ある人たちにとってはかけがえのない、安寧の日々だったかもしれないのだ。
この何でもない日常にこそ、ありがたみを覚える時、ぼくは、人生の意味を再度、悟ることになる。
そんなこといちいち考える暇はない、と思う人がいてもいいだろう。
でも、たとえば、今日まで生きながらえることが出来たぼくのこの人生、あなたの人生は、時には事故もあったかもしれないが、なんとか、続いてきた偉大なる一生の一部にある、ということが出来る。
何が起こるかわからないこの世界だけれど、背筋を伸ばして、この日々と向き合い、切に生きていこう、と再確認をするに余りある「今日」なのであった。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。