THE INTERVIEWS
照明デザイナー 石井 リーサ・明理「光と影が伝えられること」 Posted on 2017/01/23 辻 仁成 作家 パリ
照明デザイナーという職業がある。
リヨン市の光の祭典は街中がライトアップされる世界的なイベントだ。そこに難関コンペを乗り越えて招待されている日本人照明デザイナーがいる。石井・リーサ・明理さん。
この特殊な職業の代表格の一人でもある石井さんに光の祭典の開催期間中、リヨン市内のホテルでお時間をいただき、またしても深いインタビューを行うことができた。
フランスにおいてトップ照明デザイナーとなった石井さんの仕事に対する姿勢、生き方、同業者でもある母、幹子さんへの思い、そして光に対する創作視点などを語っていただいた。
どうやってこのような特殊な職業へと彼女を向かわせたのか、ザ・インタビューズ、その本質へと迫ります。
辻 ライティングデザイナーっていうのは日本でもかなり特殊ですよね?
石井リーサ・明理さん(以下、敬称略) そうですね。世界的にも特殊です。
辻 昨夜、初めて作品を見させていただき、なるほど、こういうことを生業とされてるんだな、と知りました。
石井 こういうこと”も”ですね。基本はどちらかというと建築のライトアップ、それがメインで、こういう所謂アートワークみたいなことの方が少ない。
辻 なるほど。建築家や建築会社と組んで都市や新しいビルディングなどのライティングをされる方がビジネスにはなりますものね。
石井 アート系ばかりやってる方もいらっしゃいますけど、そういう方はどちらかというとアーティストで、いろんな作品がいろんなフェスティバルに呼ばれるとか、ギャラリーに展示するとかそういう活動をしていて、私の場合は、メインは建築家の方と一緒にライトアップするとか、美術館、展示会の照明をするとか、あるものに光をあてる方。
辻 では、石井さんのお仕事の正式名称はどうなるのでしょうか?
石井 照明デザイナーです。
辻 照明デザイナー。それは恒久的なものですか?
石井 恒久的なものもありますし、単発的なものもあります。
辻 ショーみたいなのもあるし、企業のイベントもあるし、国や街や市のイベントなんかもある。あとは建物ができた時のライトアップ。恒久的な設置もあるわけですね。その中で昨日見せていただいたようなインスタレーションは、石井さんの中で全体的に大きな枠は占めないけれども、アート活動としては重要視されている?
石井 そうですね。照明デザイナー vs 光アーティストで、違う職業が二つあるみたいな感じがしますけど、例えば私が一緒に仕事をしているエリック・ミッシェル、彼の肩書きはアーティストですけど、やってることはすごく私と似ているんですね。
辻 じゃあ、光アーティストの人にも例えば建築家から依頼があったりするわけですね?
石井 でも、それもアートワークの延長上なので、別にクリエーションのプロセスとしては変わらない。
辻 その辺の区別は、職業が職業だけに線引きは難しいですね。僕らには区別がつかない(笑)。
石井 なんか職業の枠が表からつけられちゃってる感じで、本人的にはやってることは一つなんですけどね。
辻 僕もいろんなことやりますが、発露したいことの方法が文章だったり、映像だったりするだけにすぎません。
石井 その枠がすでにあるから、映像の場合は監督って呼ばれるし、文章になれば作家になるだけで、本人の活動のアメーバの形と、社会的な規定がちょっと合ってないだけなんですよね。
辻 要は光のアーティスト、光のクリエーターということですね。ちょっと石井さんの歴史を遡ると、まず、お母様、石井幹子さんは日本におけるライトアップ、照明デザイナーの第一人者ですよね?
石井 はい。私が生まれる前からずっと照明デザイナーの仕事をしていました。
辻 先駆者であるお母様の影響も大きいですか?
石井 実はですね、全く照明デザインをやれとか、事務所の跡を継げとか、言われたことはないんです。
辻 そうは言っても母の仕事をずっと子供の頃から見ていらしたわけですよね?
石井 それはあると思いますけど、クリエーションをやろうと思っていたので芸大に行ってアートの勉強をしたんですけれども、じゃあ照明デザイナーになるかっていうと、大学を出る時点まで全然考えていなかったんです。
辻 最初は何を目指して芸大に入られたの?
石井 アート全体がすごく好きで、でも何になるかわからなかったので取り敢えず芸大に入った
辻 やっぱりそうは言っても、蛙の子は蛙・・・。
石井 絵は描いてみたらうまかった。照明デザイナーになろうと思ったのは非常に自発的な選択だったと思っていますね。
辻 では、お母様との違いはなんでしょうか?
石井 母は性格的にも非常にアーティスト的気質といいますか、「これったらこれ、絶対これ!」みたいな。で、理屈付けは後からなんです。人を説得するために意味付けがある。一方、私はデザインをする時に、いろんなものを調べた上で、「コンセプトはこれだ」みたいなのが先にある。それに対して、形とか色とか動きとかが出てきて、必ず理論と形のクリエーションとの間に行き来があるんですね。私の方が理屈っぽいと石井は言います。発想のプロセスが違う。母は非常に直感的です。
辻 アーティスト気質はお母様の方が高いということですね。こういう風に比較されるのは好きじゃないですか?
石井 いや、よくあることですから(笑)。ただ、やりなさいとか、なりなさいと言われてやってないというのが自分の根底にあります。
辻 例えば、まだ小さい頃にお母様の姿を見ていて、すごいなって思ったこととかありますか?
石井 大変そうだなって思ったことはあります。
辻 作品などを通しては特別な感情はおもちじゃなかったということ?
石井 そうですね。でもその代わり、照明デザイナーになってから、ちょっと古い作品とか見て、これは何年代くらいの作品だとか、そういう知識の蓄積はありました。自然にできていた。これは母のおかげです。
辻 その辺、ちょっと複雑で逆に興味深いです。お母様が照明デザイナーの第一人者なのに、どうもその影響を強く受けたわけじゃない、と発言されている。もう少し、深く質問させていただきますが、石井リーサ明理さんが照明をやろうと思った大きなきっかけは何?
石井 大学を卒業してから大学院に行って理論を勉強して、実技をもっとちゃんとやりたいと思ってパリのデザイン学校に留学したんです。その学校はインダストリアルデザイン、いわゆる工業デザインを教えるところで、椅子とか机とかプロダクトもやるし、グラフィックや環境デザインもやる、いろんな項目を全般的に学べるデザイン学校で、非常に優れた教師たちがいたんですけれども。その中で照明デザインっていうのがたまたまあって、全部必須なんでやらなきゃいけなくて。その時にランプのデザインをしたのですけど、やってみたら面白かった。そしてなんだか知らないけど成績が良かったんです。それから、どこかで研修をしなければいけなくて、知り合いのフランス人の照明デザイナーにお願いして、(のちに私が就職することになる会社ですけど)行ってみたら、その時パリはグラン・プロジェと言ってルーブルのピラミッドとか、バスティーユのオペラ座とかがどんどん建っている時で、その建築都市の変遷に合わせて、照明もすごく発達している時期だったですね。照明によって街を塗り替えるとか、そういう手法が確立される時期だったのです。私はそういうことは全然知らなかったし、そういうアプローチは今までなかったので、照明ってすごいなって感動しました。
辻 その方は有名な方?
石井 そうでうね。フランスの照明界では非常に有名な方ですね。ルイ・クレアさんです。
彼は映画のスタジオの出身なんですね。映画スタジオのオーナーのご子息で子供の頃からずっとスタジオで遊んでいたみたいです。なので、ものの作り方がモノクロ映画を作るようなヴィジョンなんですよ。ある時、彼に映画に誘われて、モノクロの映画を観に行ったんです。そしたら観ている間中ずっと「ほら、あそこの影がこういう風にできているんだ。こうやって光が当たってて、あの光が当たっているということはこういう心情を表している。」みたいなことを隣でずーっと呟くわけですよ。私は映画の筋もわからないし、言ってることも聞こえないし、うるさいなと思っていて(笑)。もう今何を見たか映画のタイトルさえ覚えてないんです。でもそこで、モノクロの映画っていうのは光と影でできているということを改めて実感し、学んだ。それと先ほど話したグラン・プロジェ(都市工学)の、両方のアプローチがあって、当時、絵画も映画も、それから建築も、ユーバニズムに非常に興味があったので、その自分が興味のある全てのものの中心に「光」というキーワードがポンと降りてきて、興味がそこへずんっと集約されて、テーマは「光」だということになったんです。もともとクリエーターになりたかったので、光をクリエーションする人、イコール照明デザイナー。あれ? うちにもいるな。みたいな(笑)。そういう関係ないところから降りてきて、戻ってきたら母がやっている職業に行き当たった。
辻 我々からすると照明デザイナーという職業は一体どういうものなのって思うわけです。その、確立してる職業と捉えてよろしいのでしょうか?
石井 いわゆるコンサルタントです。アメリカ式にいうとライティングコンサルタント。建築家が全部はできないから、照明はあなたにって。大きなプロジェクトになると、庭に噴水作るときには噴水コンサルタントがいて、レストラン作るときにもそのコンサルタントがいて。
辻 なるほど。照明デザイナーってたくさんいるわけじゃないから、逆にいうと需要はあるわけですね。
石井 と、私たちは思ってます。
辻 お母様の会社は東京にありますが、そこで一緒に何かされることもある?
石井 一番初めはやはり母の事務所に就職をして3年働きました。今は独立していますけど。ヨーロッパで大きなプロジェクトをやる時、例えば2016年5月にやったローマのコロッセオのプロジェクトなんかは、やはり私がヨーロッパにいるということで、一緒にコ・プロダクションしました。
辻 クレアさんと出会って照明デザイナーとしてスタートされますが、その後、パリで活躍するようになるまでの道のりを少し聞きたいです。
石井 留学が終わって、大学院は日本に戻って卒業して、その後アメリカでまず照明の研修を行いました。それから石井の事務所に3年いて、角掃きから夜食の手配までやって、それからやっぱりパリで照明に出会ったので、パリに戻ってもっと勉強したいと思い、最初に教えて下さったクレアさんにファックスを送って、雇って欲しいとお願いしました。彼もいつでも戻ってきていいよとおっしゃってくれたのでお言葉に甘えたんですけど。ビザを取るのがすごく大変で。今考えるとよくあんなにやってくださったって思います。失業者の多いフランスに、海外から人をっていうのはすごく厳しい審査があって、それをちゃんとやってくださった。1年くらい待ちましたけど。晴れてビザが取れてフランスに来たのが1999年でした。そこからルイ・クレアさんのところでチーフデザイナーというポジションで5年間。パリのノートルダムとか、モンサンミッシェルとか、幅広くやらせていただいて、そして2004年に独立しました。
辻 たしかに、お母様の影響はあるにしても、はっきり指導してくださったのはルイ・クレアさんですね。
石井 母が土で、クレアさんが種を蒔いてくれた人みたいな感じですね。
辻 ああ、いい表現だ。よくわかりました。2004年にパリで起業するのが一番大変だったと思いますが、どういう形でスタートしたんですか? パリでやっていく自信はありましたか?
石井 そうですね。クレア氏のところで働いている時に、私宛に仕事が入るようになって、知り合いの建築家の方とか。私が仕事を持ってくるようになってきたんです。それまでのクライアントも、ルイとは打ち合わせしにくいけど、リーサならいいと言ってくれる人がいたり、講演に呼ばれて、ルイじゃなくてリーサと言われたりするようになって。事務所での居心地的にも雰囲気も変わってきたので、そろそろかな、と。いずれ独立しようと思っていましたから、やめようと思ったのが8月で、その翌年の3月にはもう会社を作ってましたね。
辻 クレアさんはあなたのためにビザも取得してくださった。なのに、5年でポッといなくなった、とか思われなかった?
石井 5年は短い期間ではないし、いずれは独立するだろうと思ってたと言われましたね。とても寛容的な人です。
辻 クレアさんの指導方法を訊きたい。
石井 ある時、照明デザインの課題を出されたんです。写真を渡されて、舞台の写真だったんですけど。登場人物が誰もいない、古い館の中みたいなシーンで。そこに光だけで喜怒哀楽を表現するプランを作ってきなさいって。で、提出したら、「君は絶対光をやるべきだ」ってすごく言われて、「最初の課題でこんなに光だけで喜怒哀楽を表現できる人はあまりいない」って。
辻 それはどんな事をされたの?
石井 簡単に言うと、喜はなんか楽しいデコレーションみたいなのを光で作って、怒はちょっと覚えてないんですけど、哀は部屋の中に一つだけ椅子を足して、そこに青白いスポットを当てて、ここにずっと座っていた人が亡くなったみたいな説明を入れました。物語を作らないと誰のどういう哀なのかわからないので。
辻 石井さんの照明デザインには最初からずっと物語がある。きっと創作の最初の段階から頭の中に大きな物語の枠組みがあるんでしょうね? それを組み立てていくんだなって。最初からずっとその手法は変わらない?
石井 多分そのトレーニングを得た時に、ヒントを得ちゃったのかもしれないです。
辻 これからやってみたい事はあるんですか?
石井 私、究極は砂漠の中の遺跡で、誰が行くの? っていうようなところをライトアップしたいんです。砂漠の中の遺跡を照明するだけではなくて、そこに行くための道とか、その人たちが泊まる街とか、全部を総括的に、社会的に潤うようなライトアップをしてみたい。
例えば、オアシス都市からラクダに乗って、遺跡まで行くんです。その間に、オイルランプが置いてあって、そのオイルは地元のパルムオイルで作って、ランプを作ってくれる焼き物職人がいて、ラクダの上にはソーラーバッテリーが乗ってて、それに乗ってオアシス都市まで行って、そこに行ったら地元のガイドさんが付いててっていう。実はこのプランはチュニジアで考えていたんですよ。でも、アラブの春のために、大どんでん返しで全然実現する見通しがないんです。
辻 どっか他の国でもいいかもね?(笑)。
石井 敦煌とかね(笑)。そういうすごいロマンのあるところでライトアップをしてみたい。
辻 ルイさんとか、石井さんとか、光の照明デザイナーって、フランス全土でどれくらいいらっしゃるんですか?
石井 フランスに照明デザイナー協会っていうのがあって、正会員と準会員で80人くらいいます。狭い世界なのでもちろんみんな知ってますし、多かれ少なかれ友達みたいな感じです。少なくて新しい業種なので、一緒に社会に対してアピールして啓蒙活動していかなきゃいけないって。
辻 昨日は見学させていただいたリヨンの光の祭典なんかはかなり大きなイベントですね。
石井 ただ、最初お話しした通り照明デザイナーだと思っている人達は、光アーティストの祭典に応募しない人もいるんです。なので、照明デザイナー協会に入って今回出展してるアーティストは2人しかいないんですよね。
辻 分けてるんですね? 意識的に。
石井 それか、たまたまアプローチが違うから、まだ融合する地点まで到達していなくて、私みたいな変わり者が融合地点に到達しているだけなのかもしれないです(笑)。
辻 石井さんがやっていることは面白い試みです。光の仕事があるんだって、世界に伝えているわけですからね。光の仕事です。
石井 やはり光ってカタルシスってゆうか、心に訴えるし、きれいだからみんな見たい。見たら嬉しくなる楽しくなる、癒される。いろんなメッセージがたくさんあるものなので、光の美しさとか、便利さとかを皆さんに知っていただく機会っていうのは、できるだけやりたいと思っています。
辻 僕はすごく光にこだわり続けてきた作家だと思います。「海峡の光」とか。光を描くことが一番好きで、で、結局光を描くということは闇を描かなきゃいけない。闇を描くために光を表現する。
石井 この間読ませていただいた「永遠者」ですけど、いつも辻さんのパリは晴れているんですよね。住んでる私は逆だと思うんですけど、辻さんの中のあの永遠者の世界のパリはいつも天気が良くて、雨の日も1日、2日ありましたけど、なんか、それは永遠者になっちゃった彼が苦悩しながら生きていく、ドラキュラかもしれないと言われているあの一族が闇の一族で、それとのコントラストなのかなって。でも別にドラキュラじゃないから、晴れてても外を歩けて。
辻 パリはね、たぶん晴れているから寂しい。だから快晴のパリを見ているとすごく物悲しくなる。ここは永遠と対峙してきた街。もう変えることのできない街・・・。壊して新しいもの建て続けることが可能な東京とは対局になる街です。そこにある青空は虚しいんですよ。
石井 影の話で面白いと思うことは、私も照明をする時に、特に彫刻なんかの時は影を見てるんです。形のあるものに光を当てると、どうしても光ってるところを見るんですけど、私の場合は光の調節をしながら、いかにきれいな影を作るかっていうところを見ていて、きれいな影ができたところでストップって言う。きれいな影がないときれいな光が見えないんで、本当に陰と陽が一体になるようにできていて、光を作ると思われがちですけど、実は影を作っているんで、辻さんの視点はまさにそこですね。
辻 なるほど。僕は小学生の頃に月の暗い部分に影響を受けました。自分の小説を作る上で大事なことは見えない月の暗い部分だって思い続けて書いてきた。月の暗い部分を描ける作家になりたい、と。だから影をきちんと描いている人の照明に感動するのかな?
石井 わりとそうでない照明デザイナーもたくさんいます。私も最初から影に注目してたわけではないんですし。ある時、難しい彫刻の展覧会の照明をした時に苦労したわけですよ。きれいに当てられなくて、で、いろいろ当てるんだけど、きれいに見えなくて、困ったなあと思って、あ、そっか、影がきれいじゃないからきれいに見えないんだって気づきました。
辻 きれいなものにきれいな光を当てて、きれいですよねっていう照明はいくらでもあるでしょうね。石井さんの光の創作は、ちゃんと闇や影や見ている人たちの足元なんかを心に浮かびあがらせる作品でした。ありがとうございます。
posted by 辻 仁成