THE INTERVIEWS

布袋寅泰の決断 Posted on 2019/12/30 辻 仁成 作家 パリ

 
数年前にイギリスに渡った天才ロックギタリスト布袋寅泰さん! 世界を相手に日々挑戦し続けている彼の今に迫る辻仁成のインタビューです。
 
辻仁成と布袋寅泰さんとの出会いは今からおよそ30年以上前に遡る。
布袋さんがまだ原宿の小さなアパートに暮らしていた頃、そうピンクのベスパに乗っていた頃の話だ。今よりもずっと小さな場所で、BOφWYの布袋さんとエコーズの辻は出会うことになる。お互いの第一印象はどんなものだったのだろうか。あの頃の二人は何を目指し熱く向かい合っていたのだろうか。その瞳の奥で輝き続けていたもの、それは。今、この時も失せることのない輝きの中に、二人が歩んできた時代がある。
 

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30年以上前、布袋寅泰との出会いは大きなインパクトを伴った。いろいろな意味で衝撃的な男であった。
けれども二人は親しいわけじゃない。むしろ、当時はその反対だった。
しかし、あれから30年以上の歳月が流れる。ロック黎明期にバンド活動をしていた者同士、しかも現在は隣国で暮らしている。

時を超えて、久しぶりに僕はこの天才ロックギタリストに会ってみたい、と思った。
5年前に家族でイギリスに渡り、世界を相手に挑戦をし続けるこのギタリストに、渡英の気持ち、ロックへの想い、家族への愛について、率直に言葉の礫をぶつけてみた。

ロンドンシティ、ケンジントンでの独占取材。ザ・インタビュー、布袋寅泰の決断、をお送りします。
 

布袋寅泰の決断

 
 デビューの頃、よくBOØWYとはイベントなんかで一緒になりましたね? 最初はどこだったかな?

布袋 寅泰さん(以下、敬称略) 僕ね、記憶がねぇ、結構曖昧なんですよ(笑)。もちろんECHOESとやったのは覚えてる。場所がどこだったかはちょっと忘れたけど。何回かやったよね。

 ロックンロールオリンピックなんかでも一緒になりました。でも、実はそれよりもずっと前に、まだBOØWYもECHOESもデビューする前なんだけど、たぶんスタイリストのミツワだったかな? 彼女の紹介でお会いしたことがあった。布袋さんVespa乗り回してたね。

布袋 あ、原宿のアパート!

 それが布袋寅泰と話した一番最初だった。僕はその時に物凄いインパクトもらったんだけど。今でもそのことをよく思い出します。誰かの話になってね、「いい奴らばっかだよね」と僕がお人よしな発言をしたんだけど、そしたら布袋さんが「いや、人間なかなか悪い奴はいないよ。でも、だからって、みんながみんな自分にとっていい奴だとは限らない」と言い切った。たぶん、20歳とかそれくらいの時に。布袋さんが言ったこのセリフに衝撃を受けてね、実はそれ以降、何度か、このモチーフを小説で使ってる(笑)。

布袋 え、ほんと? 19、20歳の頃ですね。

 この人、哲学持ってるなって。その時ギターが置いてあってね、アート・リンゼイとか弾いてたんだよね。ジャズにはまってると言ってた。物凄いテクニックだった。バンドでやっている8ビートのロックとは違う、あまり聞いたことのない世界の音だった。あれ? この人、実力を隠しているのかな、と思った。

布袋 偉そうなこと言ってましたね(笑)。

 いやあ、その言葉がね、いまだ僕の頭の中では布袋寅泰を象る強い印象として焼き付いているんです。



布袋 今思えば、あの頃の方が自分をはっきり持ってたような気もするね。逆に言うと、なんちゅうの、やっぱこう、はみ出ていたい。尖っていたい。っていう気持ちが強い頃じゃない。自分の思ったことを強い言葉で表現してね。でも、僕もこう見えて、温厚な人間なので(笑)。

 今なんつった? 温厚な人間って言ったの? みんな聞いた(笑)?

布袋 そうね、もともとそんな尖った人間じゃないと思う。やっぱ音楽やる時は尖っちゃう。特にロックは。

 尖るのはロックだからしょうがない。BOØWYの伝説的な顔とは別に、物凄くクールな哲学者みたいな佇まいがあるよね? 実はずっと尖ったロックミュージシャン布袋寅泰を疑って見てた。この人は頭の良さや哲学的な思考をわざと隠しているって。自己演出してるなって。僕はラッキーなことに原宿のその誰かのアパートで、たまたま一緒に話をする機会があったからさ、見抜いていた。こいつ、ただ者じゃないぞ、気を付けろって(笑)。

布袋 それ、僕のアパートですよ。ピンクのVespaに乗っていた。BOØWYのデビュー直後です。

 そっかぁ。確かにギターがたくさんありましたね。あそこ、布袋さんの部屋だったのかぁ。オシャレなアパートでしたね。

布袋 うん、なんで自分がそういうこと言ったのかは覚えてないけど。

 あれからBOØWYがドカンと世に出て、一方ECHOESは解散してしまうんだけれども。そこから僕は小説家になり、布袋さんはソロ活動を選び、今二人ともヨーロッパにいる。6年くらい前に六本木で二人で飲んだことがあったけど、それを含め、何回かしか接点はなかったけど、ずっと気になってました。今日はいろいろと訊いてみたいと思っています(笑)。まず、最新盤、『STRANGERS』(ストレンジャーズ)を聞いて、30年前に僕が感じていたもう一つの知的で哲学的な一面を思う存分投げつけて来たアルバムですね。化けの皮をやっと剥がしたな? みたいな(笑)。原宿のアパートで訊いたジャズのインプロヴィゼーションを思い出しました。普通のロックのリフじゃない。

布袋 『STRANGERS』は初めてのワールドワイドリリースで、ワールドマーケットを目指して作ったアルバムだし、僕は14歳でマーク・ボランやデヴィッド・ボウイの音楽を聞き始めた頃からずっと洋楽志向ではあったけど、でもやっぱり日本のマーケットで活動してきたから、結果的には凄いドメスティックなアーチストだったんだな、と思うのね。実際『STRANGERS』で、化けの皮を剥がした、とおっしゃるけど、確かにね、閉じ込めていた自分を解放できるチャンスがやっときたんだけど、伝えるべきオーディエンスが見えない。なんかこう、夢の扉を開いたけれども、そこには行き先が見えない永遠の水平線が続く感じ。無限の大海原を目の前に、見えないオーディエンスに曲を作るっていうことの難しさね。

 それはやや途方にくれるというような感じ? 

布袋 うん。しかし、もうドメスティックでなくてもいい。同じですよね、バンドを解散した時と。自由と孤独が一緒に目の前にあるっていう。
 

布袋寅泰の決断

 
 新作アルバムの中には半端なく可能性が織り込まれていましたね。ちなみに、このサウンドはどういう人たちに向けて放たれたものなの? もしくはBOØWYからのファンの人たちはどのように受け止めたんだろうか?

布袋 僕の音をずっと聞いてくれたファンは、男っぽい尖った言葉やサウンドの裏側に、音楽的にもマニアックな冒険を続けてきたのを知ってるし、比較的自然に受け止めてくれたと思うけどね。

 世界を意識した、ミュージシャンズミュージックみたいな、通受けするアルバムじゃない?

布袋 どうなのかな。いやあ、これは苦労自慢するわけじゃないけど、いろいろ本当に大変でね! いきなりワールドリリースって言ったって、何も決まっていなかったし。日本でのキャリアや実績があるからと言っても、そんなものが世界のどこにでも通用するはずがない。5年前に家族を説得して、移住という形でイギリスに移って、人と巡り合うことからスタートした。レーベルも日本でのユニバーサルとの契約があるからといって、こちらのユニバーサルが「ようこそ世界へ! 早速リリースしましょう!」なんてことにはならないよね。正直日本にいた時はそんなことも起こり得るのかな、などと半分期待してたけどね(笑)。無力な一人の新人アーチストに戻って、自分がやりたいことや伝えたいことを、文字通り自分で伝えていかなければならない。マネージャーもいない、マネージメントもない、全くのゼロからスタートするってことはこんなに大変なんだと打ちのめされたよ。それは逆にやりがいのあることでもあるけど。



 この『STRANGERS』というアルバムの中にね、ほら、僕が20歳の時に布袋さんのアパートで聞いた思惟に富んだあの言葉「いや、人間なかなか悪い奴はいないよ。でも、だからって、みんながみんな自分にとっていい奴だとは限らない」の精神がこのアルバムの中にはある。というのは、昨年出されたベストアルバムも聞いたんだけど、それは意外じゃなかった。ドメスティックにやってきた布袋寅泰のこれまでの足跡が想像できる感じでセレクトされていた。いい感じに。しかし、ベスト盤と『STRANGERS』は全く比較できないね、この人こういうことやろうって思ってたのか、という驚き? や
 その、5年間のご苦労。僕は15年フランスに住んでるから、わかる気がするけど。今まで培った日本でのキャリアを一度脇に仕舞って、自分の真価を問いたくてここに来たと思うんですけど、そして作ったアルバムが世界でリリースされて。でも、それを作り上げていく大変さとか孤独さって、言葉で言えないほどだったろうなぁ、と思う。

布袋 ローカライズ。せっかくこちらに来たのだからこっちのやり方でやりたい。それがしたくて移ったわけだからね。日本では僕が作る音楽に対し、誰にも意見を言わせないわけではないけれど、30余年のキャリアと実績と信頼関係があるから、レコード会社のディレクターもマネージメントも理解してくれて、やりたいようにやらせてもらっている。しかしこっちでは、昔から聞いてたけど、いろいろな人が音楽そのものに口を出してくるよね。別にただただ音楽を切り刻んで商業主義なものにするというわけではなく、それには理由があるんだけどね。日本ではマネージメントとレコード会社の連携で制作から宣伝などの全て網羅されることが、こちらではそうはいかない。マネージメントやレーベルやPR会社とも個別に、またはラジオのプロモーションに関してはラジオプラガーと呼ばれる人を探して契約しなければいけない。日本のドメスティックな感覚とは違って、こちらではパート別に人を手繰ってチーム作りをすることを理解するのに時間がかかったよ。この『STRANGERS』は日本で洋楽を意識した作品を作るのとは違う。世界へアプローチするためには、今までの自分の感覚を一度捨てるべきだな、と思った。「まな板の上の鯉」となり英国のプロデューサーに自分を委ねたのも、自分のキャリアの中で初めてのことなんですよ。今まで全作品セルフプロデュースしてきたから。

 そのプロデューサーたちとどうやって知り合ったの? 

布袋 昔からの仲間もいれば、知り合いの知り合いの知り合いとか(笑)。いきなり門を叩いた人もいます。その中で4人の英国人プロデューサーと出会い、まずは自分を一生懸命伝えることから始めた。日本の有名ギタリストだとか、Kill Billのテーマ作った奴だとか、いくら僕の作ってきた音楽をYouTubeで見てもらっても、ヒット曲を聞いてもらっても、それらは全て過去のものだからね。とにかく会話をして自分を伝えて、僕の中にいる僕の知らない自分を見つけ出して欲しかった。結局そういうことをやりながら作ったから、『STRANGERS』は完成まで2年以上かかりましたからね。

 4曲目だと思うんだけど、Move itって曲だっけ。あれは誰が歌ってるの?

布袋 あの曲は、ドイツのラムシュタインというバンドのリヒャルト・Z・クルスペというギタリスト。他にも何人かコラボレーターがいる。レーベルのプロデューサーや知人を通じてアプローチした。今回は自分で歌うことをやめたのでね。

 ベストアルバムの中に入ってるスターマンは自分で歌ってるよね? ああいうアプローチ面白かったけど、変えたってこと?

布袋 英語で歌い伝えることをあきらめた。その難しさはボーカリストだったらもっと強く思うだろうけど。僕がこうやって振り切ってこちらでやろうと思えた最大の理由は、自分がギタリストだからっていうのが大きいね。

 ギタリストだからギターで通じるものね、いいなぁ。ボーカリストは通じない。どんなに頑張ってもネイティブじゃない限り無理なことってあるよね。

布袋 そうなんだよ。だから、僕がギタリストであることは最大の武器だし。いつか海外でワールドツアーや自分の腕試ししたい、こっちのミュージシャンたちと自由に会話しながら音楽を作る環境に身を投じたいなって10代の頃から思ってたんだけど、それは「ギター」いう楽器に出会った時から。言葉がいらないから。ドラマーとも会話できるし、ベーシストとも会話できるし、ボーカリストの横に行ったらお互い火花散らして刺激しあえる。一緒にプレイする相手を楽しませながら真剣勝負したい。それはギタリストにしかできないことだと思う。ラッキーなことにローリング・ストーンズやイギー・ポップや、憧れの人たちと共演できたのも、独自のスピリットとスタイルがある感覚派のギタリストだからチャンスが巡ってきたんだと思うし。ボーカリスト同士だと、デュエットでしょ? キーやアレンジやいろいろ面倒臭いことになるよね。ギターというツールを刀のように腰に当てて戦ってきた。しかし今は昔とは違ってむやみに振り回さず、もう少し精神的な部分で戦いたい。いろんな経験があったからこその侍。
 

布袋寅泰の決断

 
 『STRANGERS』、日本ではなかなか作れないアルバムじゃないか、と思いましたね。

布袋 昨年はアーチスト活動35周年でした。その35年っていうのは日本のタイム感の中にいたから、次から次へと作品を投げ続け、いろんなことにチャレンジしながらあっという間の35年間だったけど、今振り返ればじっくり自分や自分の音楽と向き合って作品を作る余裕もなかったし、それができなかった。日本のマーケットのせいにするわけじゃないけど、こうね、次から次へと脱皮していかなければいけないサガってあるじゃないですか。日本で生き残るために。

 あるある。年に2回アルバムだそうって言われたこともあったなぁ。日本のマーケット自体が狭いからそのタームになるよね。

布袋 でね、『STRANGERS』ができ上がって、よしできた! やっとこれで世界デビューだ! と意気込んでも、今度はそれを伝えることが難しい。インターネットが主流の時代とはいえ、やっぱりそこはセレクトされた情報で構築されているし、無限ではあるけれども無限ゆえに届かない時代でもあるじゃない? そんな中で自己紹介インタビューしたり、さまざまなアプローチで自己PRしながら、ものを伝えることの難しさや、もどかしさを久々に味わってますね。日本ではアルバムの発売日がピークで、そこに向けてTVや取材や広告やらを詰め込んで、発売1週間でチャートが何位までいって・・・。

 初登場1位とか、そっから落ちるしかないからね(笑)。

布袋 そうなんだよね。で、その後コンサートツアーなどがあるにしても日本でのプランニングは1年のタームで動いてる。こっちは、リリースして、まずはヨーロッパのPRのためにまず1年かかるね。ヨーロッパと言っても各国それぞれ違うからね。地道なライブやPRを積み重ねて。それにUSAもターゲットに入れていくとなればまたそっちに1年。だから、昔よく外国のバンドはアルバムを1枚出すと3年は出さない。もしくは5年に1枚しか出さない。っていう、なんか、怠けてるイメージあったけど、彼らはそうやって世界をターゲットに大きな時間の流れの中で創作やPRやライブ活動や、ライフワークを作り上げてるわけだけど、全くその辺の感覚が違うね。『STRANGERS』をリリースして2年目だけど、来月からのユーロツアーはまだ『STRANGERS』のPRの延長ですね。日本だったら2年前の曲をやると、なんか時間を遡っているような気持ちになる。分け隔てるつもりはないけど、全く異質のものですよね。感覚的に。



 50過ぎたりすると「さあ、そろそろ時間がないぞ」っていうことになる、本当にやりたいことやっとかないと、70になったらできないし。特にミュージシャンは。最後の大団円に向けて最高のものを作らなきゃって思うよね。

布袋 そのためにね、50歳になった5年前に日本からこっちに移ったわけだし。

 なるほど。

布袋 おっしゃるように自分ももう50代。一人の人間として、アーチストとして、50代の夫婦として、また多感な10代の娘と過ごす大切な10年間を東京で暮らしていく選択もあれば、ハワイで太陽の下暮らすもよし。自由じゃないですか。僕はやり残したってことと言えば、ずーっと先延ばしにしていたワールドツアーや、常に語っていたくせに叶えようとしなかった夢を叶えたい。これは待ってても向こうから来ないじゃないですか。自分で動かなきゃ。

 凄いよね。日本にいたらキングなのに、わざわざそれを捨てて・・・。今日ね、布袋さんバスに乗ってきてるんですよ! 東京だったらありえない(笑)。

布袋 今回ユーロツアーもね、11日間8公演というハードスケジュール。メンバーとスタッフと一緒のバスツアーですよ。夢に見た(笑)。たまにフライトの移動もあるけどね。

 ユーロツアー、どこのプロモーターがやるの? 

布袋 国や現地でまったく違うところが。プロモーターもなかなか手を上げてくれないですからね。無名の新人には。今回は300キャパぐらいのライブハウス。とにかく最小限の人数で楽器も少なくして周ります。車のツアーだと機材の重さの制限とかもあるし。

 しかも、デザインストーリーズごときのインタビューを受けてくださって(笑)。

布袋 何を言いますか(笑)!

 でも、本当に欧州の多くの方々に見ていただきたいっていうか、これを読んだ方にぜひ行っていただきたいと思います。 
ライブは『STRANGERS』というアルバムを中心にやる感じですか?

布袋 そうですね。昔のBOØWYの曲も演りますよ。最大限に自分のスタイルを表現できる曲を。そこには日本語も英語も関係ないじゃない。

 ヨーロッパやアメリカの人たちって最近、日本語で歌ってほしいって言うよね。

布袋 そう聞くね。下手な英語よりも聴きやすいだろうしね(笑)。たまに日本語がすごいうまい外国人の演歌歌手の歌とか聞くとちょっと微妙だしね(笑)!

 あはは。そんな感じみたい。だから、なんで日本人は日本語で歌わないんだろって言われたことがあって。なるほどなって。じゃあ、今回はBOØWY時代のナンバーもある程度網羅するって感じ?

布袋 基本は『STRANGERS』中心ですけどね。インストゥルメンタルと歌ものと半分半分。

 じゃあ、『STRANGERS』で歌ってるボーカルのところは誰がやるの?

布袋 歌える範囲で自分で歌うよ。しかし歌よりギタリストとしての自分を強くアピールしたいな。だけどインストゥルメンタルだけのギターミュージックはちょっと退屈でしょう? 僕はテクニックが売りのギタリストではないから、みんながうっとりするような音は出せないけど、みんなに踊ってもらえると思うよ。

 テクニックは凄いよ。でも、サンタナみたいなギタリストじゃない。

布袋 違うよね。自分はとても特異なタイプのギタリストだと思うから、ジャンル分けもしづらいし、ビジュアル系と名乗るには随分違う方に来ちゃったしね(笑)。アバンギャルドとポップなスタイルが同居している僕みたいなギタリストは少ないと思う。イギリスにやって来て、ぽつりぽつりと自分を理解してくれる仲間と巡り会えてここにいる。そして、『STRANGERS』のリリースまで辿り着いた。だけど、なかなか伝えようにも伝えられないジレンマっていうのはあるね。作品は自己満足のために創るのではないから。一人でも多くの人に届けたい。時間とともに研ぎ澄まされた本当の自分の音楽に近付けている。だけど、それを伝えていく術がないっていうのはやっぱりストレスだよね。チームでラジオ局に売り込みに行っても門前払い食らったりさ。
 

布袋寅泰の決断

 
 凄く前向きにチャレンジをしてる印象がある。

布袋 この久々の悔しさやもどかしさっていうのは、35年前のBOØWYのデビューの頃と同じ感覚なんだよね。初めてのライブハウスでは客が20人しかいなかった。なんでだよ? 俺たち世界一最高なのに! って。でもそこでひとり一人をつかんで、20人が50人になって、1000人になって。ずっとそうなると信じてやるしかないんですよ。今のこの悔しさやもどかしさを忘れちゃいけない。もう一度自分のミュージシャン人生を1からやり直すことがチャレンジだとは思わないけど、実際こうやってライブハウスをバスで周って、各会場に足を運んでくれる目の前の一人の観客の心をつかめなかったら俺の先はないな、と思う。

 とってもいい話だな。でも、今、その境地に布袋寅泰が辿り着いたことの意味、面白さっていうのがありますね。いったい、どんな実感?

布袋 それがね、昨年のパリやアムステルダム、ベルリンの小さなライブハウスでのお客さんの反応が凄く良かったんですよね。そこには日本人の方もたくさんいらしてくれてるし、現地の人もね。昔はね、やっぱり外でやってるのに日本人ばかり相手にしたらかっこ悪いみたいな、世界を相手に勝負してない後ろめたさみたいな、初めはそう思っちゃうんですよね。なんとなくね。今、ここロンドンで暮らしていると、世界というものの捉え方が変わりますね。東京が東京生まれの人ばかりじゃないように、ロンドンのバスの中で英語が聞こえない時もありますしね。世界は自分も含めた、異人種や文化が繋がってできていると。ちょうどそういう風にオープンマインドした昨年の3公演での僕のパフォーマンスは、今までの僕とは違ったと思う。それに対するお客さんのストレートな反応がすごく僕を勇気付けてくれたっていうか。その時に、あ、いけるな。間違ってないなって。このまま何度もこれを繰り返して小さなライブハウスを続けていけば、それはいつか必ず伝わるなって、いう確信を持てたのね。

 こうやって話をしていると、昔を知っているだけに、布袋寅泰ってこんな真面目な人だったんだ、と今さらながら感動させられるね(笑)。いい話だ。自分で家族も説得し、納得させて、ロンドンに移り住み、ビザの問題一つにしても、税金の問題一つにしても、お子さんの学校の問題なんかもね、全部やってきた。僕も経験してるからわかるけど、これは簡単なことじゃない。

布袋 やってますよ僕も。学校の駐車場係とか図書係とか(笑)。 でも、俺、やるの好きだけどね、もともと。

 どんだけ本気で異国で戦っているのか、よくわかるよ。まじで。

布袋 ただ、まあ、言葉にすると凄くチャレンジングな、戦ってるっていうイメージだけ勇ましく伝わるかもしれないけど、日常っていうのはとても静かで穏やかなものですよ。何も起きない日も続くわけじゃない? 誰とも喋らない日とか、落ち込む日もあるしね。その間ストイックに黙々と腕立て伏せするタイプじゃないけど。堂々巡りしながら気付いたら5年目ですよね。

 意味のある5年でしたね。たしかに苦労話ってロッカーには似合わないから、サラっとやってるんだよね。でも、偉そうにしてもいい年齢なのに、偉そうにしないってところがいいじゃん。今の布袋さんはさらにかっこいいよね。じゃあ、次は、ユーロツアーと家族の話でも訊こうかな(笑)。
 

Photography by Takeshi Miyamoto

 

布袋寅泰の決断

<ユーロツアー 2016>

 



 
 

posted by 辻 仁成