THE INTERVIEWS
ザ・インタビュー「コロナ禍の中で人間に出来ること」 Posted on 2020/07/26 辻 仁成 作家 パリ
ロックダウンの最中、コロナ患者を受け入れたパリ市内の三つの病院に、お弁当を作り続け、二ヶ月間、届け続けた日本人がいる。6区のレストラン「Sous les Cerisiers」のさくらシェフだ。ニュースになったわけじゃないけど、こういう人の手助けがあって、病院の医師や看護師さんたちは日々を乗り越えることが出来たのである。そして、フランスも最も厳しかった3月、4月を乗り越えることが出来た。レストランが潰れるかもしれないと業界の人々がパニックに陥る中、この日本人シェフは店を開け続け、私費を投じ、弁当箱に日本食を詰め続けた。ロックダウン解除後、そのことを見守っていた地元の人たちが席を埋めたのである。ぼくが顔を出した昨日も、テラス席はいっぱいであった。この人は天使なのかもしれない、とぼくは思った。感動のザ・インタビュー「コロナ禍の中で人間に出来ること」
辻 さくらさん、よくがんばったね。ロックダウンが明けてレストランがオープンできるようになったら一番に来たかったんだけど、二ヶ月が経ってしまった、ちょっと遅れて、ごめんなさい。
さくらさん(以下、敬称略「さくら」) いいえ、ありがとうございます。すごいサプライズ。すごく嬉しい! ついさっき辻さんの噂してたんです。
辻 えー、そうなの? (どんな噂なんだろう? ドキドキ) ロックダウン解除から2ヶ月、そして、レストラン再開後、1ヶ月くらいが経ちましたが、その後、どうですか?
さくら 営業再開後、おかげさまで6月は毎日満席でした。うちはお医者様のお客さんが多かったんですけど、ロックダウンの間に日本食のお弁当が珍しかったのか、ちょっと話題になって、そうね、噂が広まったみたいで…。ロックダウン中も、休まず店を開けていたこととか、お弁当配達のこととか、が広まっていて、今まで来てくれたことのなかったご近所さんまでもが、「日本食には興味はなかったんだけど、みんなが店を閉めてる中で、君のとこだけがずっと開けて、しかも、病院にお弁当を配って、あんまり頑張っていたからね。だから、とにかく食事に行かなくちゃ、って思って今日は来たんだよ」なんて声をかけていただいて…。本当に、嬉しくて泣きました。
辻 みんな見ていてくれたんですね。当然、さくらさんだって辛かったでしょ?
さくら 先日オープンして11年目だったのですけど、11年間、うのお店は流行るわけでも、流行らないわけでもなく、ずっと安定の低空飛行で来ました。今回、コロナで、ある日突然店を閉めなければいけなくなって、もちろんみんなそうだったと思うけれど、どうなるんだろうって、私も先が見えなくなって。
辻 なんで、お弁当を病院に届けようと思ったんですか? もちろん、何かしなきゃという使命感があったにしても、私費だって相当に投じなきゃいけないし、言うのは簡単だけど、実際に行動できるものじゃない。
さくら そもそも、ある日突然、ロックダウンになり、営業停止命令が出たんです。猶予もなく、今から3時間後、新しい指示があるまで営業停止、と言われた。私たちは発表があった時も働いていたから、そのことさえ知らなかったくらいで…。人から教えられて慌ててネットで検索して、パニックになりました。買い込んでいたこの食材どうするの?って。
辻 そうでしたね。3月14日の20時過ぎに発表があって、24時から営業停止でしたものね、その間、3時間しかなかった。じゃあ、食材は処分しちゃったんですか?
さくら いや、しっかり使い切りました。うちはパリでテロがあった時に、たぶんこれから家から出たくない人たちが増えてくるかも知れないと思って、デリバリーを始めていたんです。だから、箱とか袋とかパッケージは持っていました。レストランの営業は禁止になったけど持ち帰り営業はできたのでそれを引き続きやりました。初日なんて1件とかしか注文入らなかったですけどね。それで、3日くらい続けてみたら、普段、お箸やフォークはオプション選択なので、今までみんなエコを考えて要らないという人がほとんどだったのに、みんな欲しがるようになっていて…。自宅にいるからナイフもフォークもスプーンもあるはずなのに。それで、それはなぜかなと思って…。近所の人のギスギスした感じもすごく強かったので、何かを与えること、差し出すことをしなければならないと思いました。
辻 それはつまり、先が見えないから、プラスティックのフォークやナイフでさえ、貴重品になってしまったんだね。不安だから、貰っておきたい。確かに、ロックダウンが始まった時、街の雰囲気が一瞬にしてガラッと変わりましたね。みんなが買い溜めをしたので物も一時的になくなって。みんなこの未曾有の出来事にどうなるかわからないから、すごく不安だった。
さくら 不安だったり、何かを奪われたような、みんながそういう気持ちになってることが怖くもありました。なので、まずご近所さんにごはんとかお茶を配って和んでもらおうと思ったんです。買い物とかも、困ってる人がいれば「代わりに行きますよ」とメッセージを送ったり。それで、常連だった病院の人たちの食堂も閉まっていると聞いたので、何か私にできることがないかと病院に連絡を取り始めました。
辻 そうなんだ。それは以前記事にしてもらったので詳しくはそちらを読んでもらいましょう。➡️「医療に従事される方々へ食事を届けたい」https://www.designstoriesinc.com/panorama/sakura_franck1/
さくら ボランティアもはじめは細々とやっていたんですけど、でも、やっぱり日本の食材も無くなってきて、ちょっと協力してもらえたらいいなと思って公表しました。余っている食材があったり、提供してもらえるものがあれば、と思って…。
辻 それは誰に?
さくら 日本の同業者の人とか、取引先の業者さんなんかにも連絡しました。そしたら、レストランだと「おむすび権米衛」さんがお米をくださったり、「JFC」さん、「YOSASO」さん、「pasona農援隊」さん、「獺祭フランス」さんも協力してくれました。お会いしたことも取引をしたこともないのに、友達伝手で電話をくださったりして。皆さん、賞味期限切れ間近の食材をいっぱいくださって。フランスのパッケージ会社も協力してくださって、感動しました。
辻 病院にお弁当を届けるのはどれくらい続けたんですか?
さくら 3月の終わりから、5月の終わりまで2ヶ月間、毎日やりました。私は揚げ物とか、普段あまりしたことがなかったのだけど、やっぱり材料費のこととか、ボリュームあるお弁当を作りたかったので毎日油まみれになって…。お弁当屋さんになったみたいで、お皿に盛り付けてお出しする料理がどんな物だったかも忘れてしまいそうでした。
辻 毎日何食くらい作ってたの?
さくら 一番少ないところで10食、多いところで50食くらいですかね。病院によっても違うんですけど、まず、何が起こったかというと、ロックダウンになって大きな市立病院のCOVIDチームには、大手や有名シェフたちのボランティアが集中したんです。ところが、始まってみたらCOVIDチームでないところも大変だし、合併症とかもあるわけで…。なので、うちは毎日40食とかは作れないし、もう少し小さいチーム、COVIDではないチームに声をかけさせて頂くことにしました。だって、大変なのはみんな一緒だったから…。特に、緩和ケアのチームは、患者さんの死に際に家族に会わせてあげられないとか、精神的にも相当に辛い思いをされていると聞いて、まずは、そこの部署にお話をさせていただきました。
辻 でも、お弁当を作りながらも、さくらさんだって自分の将来のこと考えないわけにはいかないでしょ? 自分のことは? あの時期、店だって、どんどん潰れそうな勢いだったというのに、他人のために何やってるんだろう? とか思わなかったの?
さくら 他人のためにというのは思わなかったです。これから飲食業はどうなるんだろうとは思っていましたけど。
辻 さくらさん、すごいよ。そんなこと、あんな真っ暗な日々、ぼくだって、鬱っぽくなって、あのパリが封鎖されて人っ子一人歩いてなくて、その光景があまりに絶望しかなくて、ぼくは未来を悲観して毎日、寝込んでいたというのに、あなたは看護師さんたちのために、お弁当を作っていた…。
さくら 私、馬鹿だから、自分の保険とか補助の手続きとか全部後回しにしていて、同業者の方らは政府からもうお金貰った、とか噂が聞こえてきて、焦っちゃったりして。でも、お弁当作らなきゃいけないから、手続きする暇もなく…。ぼんやりと、いつまで持つんだろう、うちの店、とは思ってますよ、今だって(笑)。でも、来週は、一つの病院のチームが10名で打ち上げをしに来てくれるんです。コロナが一応落ち着いてきて、重症患者がいなくなってきたから、絶対にうちでパーティーをしたいと言ってくれて…。こんな素敵なお手紙ももらったの!
辻 言葉で言うのは簡単なことだけど、実際に実行できる人はなかなかいない。外国人であるあなたが、もちろん、フランスで生きているのはわかるけど、感染の危険もあるだろうに、毎日、お弁当を作って病院に届けて、すごい、とか言葉で単純に言うことが出来ないくらい、感動しました。
さくら 辻さん、ちょっと、食べていきませんか? 夕食の時間ですから。
ぼくら取材班はもちろん、ちゃんとお支払いをして、コース料理を食べさせて貰ったのだけど、前に来た時よりも、さらに美味しくなっていて、びっくり。そこに人のぬくもりを感じる素晴らしい料理の数々でした。
posted by 辻 仁成