PANORAMA STORIES
30枚の写真と本一冊: 京トマソン— 赤瀬川原平に捧ぐ Posted on 2024/11/14 カルドネル シルヴァン 翻訳家 京都
その名称を知る前から、「トマソン」と呼ばれるものを観察していた。さらに言えば、それは「原爆タイプトマソン」だった。京都のいくつかの建物の「側面」に現れる奇妙なシルエット、影、痕跡、線を撮影していた。そしてある日、それがトマソンであり、この用語は赤瀬川原平(1937-2014)によって名付けられたことを知った。
調べていくうちに、トマソンには分類があり、トマソンには大家族があることを理解した。そして、収集した書籍に記載されている「都市のパフォーマンス」と赤瀬川が呼ぶそれらの物件を自分の目で確かめるために街を歩き回り、次第に、トマソンとその意義に関する赤瀬川原平のテキストを集めたアンソロジーを編纂するというアイデアが芽生えた。この書籍は2024年春にLes Presses du Réel出版 (レ・プレス・デュ・レエル)から刊行された。フランス語でこの公共的関心事に触れた初めての書籍である(1)。翻訳者としてのキャリアにおいて、初めて歩きながら翻訳をする経験をした。職業意識とはどこまで宿るものであろうか。
翻訳作業を進める間に京都で撮影した記録写真の中の30枚を選定し、2025年1月23日から2025年2月23日までブリュッセルで開催されるフォトブリュッセル・フェスティバルのプログラムの1つとしてギャラリーChapitre XIIで展示する予定である。
https://www.photobrusselsfestival.com/locations-25/chapitrexii-pbf-2025
赤瀬川原平
赤瀬川原平(本名:赤瀬川克彦)は、多才な人物である。日本国外ではあまり知られていないが、日本の芸術界に不朽の足跡を残した存在である。画家を志していた彼は、1960年代の日本の前衛的なネオ・ダダ反芸術運動に引き込まれ、パフォーマー、イラストレーター、タイポグラファー、マンガ家、作家(1981年に大辻克彦の筆名で芥川賞を受賞、著名な『老人力』の著者)、さらには食うに困ってサンドイッチマンとしても活動したのである。
赤瀬川の知名度を高めるきっかけとなったのが「千円札裁判」である。千円札を模造しながらも、偽造したわけではないとして裁判の末に3か月の執行猶予付きの刑を受けた。日本の美術史において、この裁判は「千円札裁判」と呼ばれ、芸術に関する重要な哲学的疑問を提起したのである。芸術とは模倣であるのか、創造であるのか。オリジナルの機械的な複製の位置づけとは何であろうか。千円札の模造がいかにして芸術行為とみなされ得るのか。赤瀬川はこの裁判を通じて、芸術、意図性、そして観察について独自でユニークな考察を始めることとなった。この考察の結果生まれたのが、「超芸術トマソン」という概念である。
四谷階段の発見
すべては1972年3月17日、正午ごろに東京の四谷で発見された奇妙な階段から始まる。赤瀬川は昼食をとる場所を探している途中で、この階段の前を通りかかり、その存在に困惑する。上り下りするためだけの階段、純粋な「階段そのもの」である。これはまさに「階段のための階段」ではないのか? 実際、かつて階段が続いていた先のドアは、窓に置き換えられていた。つまり、この階段はもはやどこにも通じておらず、階段としての機能を失っている無用の階段である。しかし、赤瀬川は、この階段が手入れされているようにも見えることに気がつく。手すりの一部が交換されているのを確認したのである。この「無用性」と「維持管理・保存」という特徴の組み合わせに、さらにこの階段が引き起こす「感情」(奇妙さ)という第三の要素を加えることで、この階段は私たちが一般的に「芸術作品」と呼ぶものに奇妙に近づくことになるのである。ただし、「芸術作品」と異なるのは、作者が存在せず、意図が一切含まれていないという点である。
作者不在のこの階段が「芸術を超越したもの」として位置づけられるため、赤瀬川は「超芸術」という新語を作り出した。すなわち、「超芸術」という概念が生まれた。街の中で類似する物件を探すことで、この概念は時を経るごとに洗練され、トマソンのファミリーは拡大していく。
「トマソン」という名称は、数年後に「超芸術」という新語を補完する形で生まれ、アメリカの野球選手ゲーリー・トマソン(Gary Thomasson)へのひねりの効いた皮肉なオマージュである。彼の日本での成績不振が、超芸術の定義を体現しているからである。すなわち、「大きなサイズを持ちながらも用途を失ったが、美しく保存されており、多くの場合建築物に付随している物体」という定義である。上りや下りのみの階段、壁でふさがれた扉、不要な橋やトンネル、高所で空間に開く扉、何も保護しない庇、さらには「原爆」タイプや「阿部定」タイプのトマソンなど、分類としては約20種類があり、これらは無用性を露わにしつつも保存への配慮がなされている共通点を持つものである。その機能の喪失が存在感を強め、独自の美的価値を帯びるまでに至っているのである。トマソンが芸術作品と異なる本質的かつ破壊的な点は、それに作者が存在せず、意図が一切含まれていないことである。
たとえ人の手がトマソンの出現に寄与したとしても、トマソン自体に作者は存在しない。むしろそれは、視線…そして言葉による創造である。ここで言う「トマソン」は、無意識のプロセスの結果で、環境に変化をもたらし、元々は持っていなかった新たな価値や地位を与えるものである。例えば、デュシャンの《泉》は、配管店からアートの世界へと飛躍し、1917年のニューヨーク・インディペンデント・アーティスト協会展 (The Society of Independent Artists)で展示され、「芸術作品」としての地位を確立した。赤瀬川は、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)をトマソンの「遠い父」として、精神的なルーツの一部と位置付けている。
四谷階段らは、まず最初に、1970年代の日本において新しい「現代アーティスト」たち(主に具体美術協会、もの派)を軽くからかうためのパロディとして存在し、それらの作品の無意識によるソックリなものが工事現場や日常空間の他の場所、つまり美術館やギャラリーから遠く離れたところで見つかることがあった。しかし、時間が経つにつれて、この階段はより深い意味を帯びる。
トマソンと日本の美意識
赤瀬川は、トマソンに対する西洋人の美的評価が成り立つかどうかを疑問視していた。それが非日本人には理解しがたい価値を持っているように思えたからだ。トマソンの発想すら日本以外の場所で生まれ得るだろうか?と彼は問いかける。
赤瀬川はやや誇張しつつも、この考えをいくつかの失敗経験で裏付ける。実際、非日本人の聴衆の前でスライドショーを通してトマソンの写真を見せると、強い感情反応が引き起こされるものの、笑い声が主であり、その興奮は議論へとは発展しないと指摘する。彼は、むしろ日本人の方がトマソンを理解する準備が整っているように見えると結論づけている。日本の美意識は、「無常」、「物の哀れ」、「侘寂」、「見立て」といった概念を通して、超芸術トマソンの豊かさを、その定義にとらわれることなく享受するための「感性のパレット」を提供する。分析的な視点(トマソンが知性を刺激する)と美的な感覚(トマソンが感情に訴える)が交わるのである。日本人は既にこのような語彙と感性を持ち合わせていると言える。例えば、消えゆくことに美しさが宿るという発想は、西洋ではあまり一般的ではない。無常とは、あらゆるものの儚さを意味する言葉である。トマソンが置かれている放置状態は、存在の脆さを示唆するものである。散りゆく桜の花びらのように、トマソンもまた時の流れや物事の避けられない崩壊の証である。「もののあわれ」という表現は、18世紀の本居宣長(1730-1801)によって定義されたもので、儚さや無常への共感を意味する。桜の花は、再生の喜びと共に、花の儚さや散ることへの哀愁をもたらす。これは、古代ローマの詩人ウェルギリウスが言った「物の涙」(lacrimae rerum)に通じている。「Sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt」(「万物には、人の心を動かす涙がある」 (アエネーイス 1,462)という言葉がそれを物語るように、もののあわれは、人の心に訴える儚い美しさへの共感を表現している。
侘寂の思想は、簡素さとその洗練から生まれる優雅さを称えるものであり、16世紀に茶道(茶の湯)の実践を中心に現れたものである。この思想はトマソンの鑑賞に新たな視点を提供するものである。ここの美学の魅力に触れることは、欠陥や崩壊、解れた痕跡に感情を抱くことである。超芸術トマソンは、侘寂の美学に属し、時間の経過によって根本的な不条理の状態に陥り、格下げを証明するものであり、都市の過剰な合理主義の不条理を浮き彫りにしている。この「物の流れ」の美学は、幻想的で欺瞞的な世界から離れようとする意志、あるいはその必要性に結びついた智慧の表現的な側面である。「時間だけが人間の意図を完全に拭い去り、物に侘の性格を与えることができるものである」と赤瀬川は述べている。
「見立て」という言葉は、動詞「見立てる」から派生した名詞形であり、文字通り「見て立てる」という意味である。つまり、「目で見て評価する」や「診断を下す」といった意味を含む。実際、この言葉の使用範囲は非常に広く、「遊女を選ぶ」ことから「米の収穫の質を評価する」ことにまで及ぶ、多義的な語である。「見立てる」は、ある物体を新しい文脈の中で再解釈し、その本来の用途とは異なる価値を付与することである。トマソンにおいては、初期の機能や形状を超え、しばしば皮肉や詩的な意味を持つ新しい意義を見出すことを指す。これは、美的な再評価の手法であり、比喩やイメージの転用を駆使して、放棄された物体の観察から新たな現実を生み出すものである。見立てることは、思考実験や言語遊戯を促すものである。目に見えるものの奥を見抜くこの能力は、観察者が目に映るもの、あるいは目には見えないものを概念化し、言語化する素養を必要とする。見立てるとは、視覚が捉えたものを引用し、転用することで自分のものとして取り込むことである。知的な遊びの口実としての見立ては、卓越した批判的かつ示唆に富む力を発揮する。
パロディを超えて
もしトマソンが「芸術の枠を超えて」いるために、厳密な意味で芸術に属さないとしても、トマソンは芸術の根本的な問いを新たにする。芸術とは何か?芸術作品とは何か?もし後者の最終的な運命がアートマーケット、広告、娯楽、デザインに供することだけであるならば、超芸術は単なる批評やパロディを超えて、観客をより繊細な次元へと導く。
予期せぬおかしみのある物体の観察は、人間の意図を超えた、創造的(あるいは破壊的?)な根源的な「他者性」の存在を明らかにする。ここでは、芸術家は創造者としての役割から退き、個人を超えた拡散的で包括的な力が強調される。赤瀬川は、この人為と対置する「自然の力」という言葉を、人工空間の中で作用する力として用いており、トマソンはその具現であると考えている。
最後に、赤瀬川原平の大いなる洞察は次の通りだろう。芸術は最終的には物に向けられた視線の中にのみ存続するものであり、その視線は自己(自力)ではなく「他の力」(他力)によって定められている。
赤瀬川は次の一節でそれを見事に表現する。
「あるとき、こういう物(トマソン)をスライドでいろいろ見せた。すると、ある人が「これはまるで他力思想だ」と言う。自力思想ではない他力思想だということです。考えてみたらそうで、トマソンというのは、ひたすら見つけるだけで作るものではないのですが、作るものよりも強い魅力があると感じていた。作家的に作った物というのはどうしてもある種の目的意識みたいなものが見えてしまう。そうするとちょっと違うものになってくる。何かべたついたものになって、トマソンみたいに面白さがすこーんと抜けたものにはなかなかならない。ですから他力思想と言われて、「ああ、なるほどな」と思った。
かつては、自立がもてはやされた時代がありましたから、そんな他力思想などということには、まったく関心はなかったのですが、 言われてみて、「あっ、そうかすごいな」と 思って、トマソンというものが一段と深まって見えてきたのです。他力思想というのは、仏教の世界の言葉らしいのですが、他力とか自力とか、そういうことを精神論で言っていると、わからなくなるけれど、トマソンで言うと、実によくわかる。
こういう面白さに目覚めた目があって、そのへんから、無意識の美、偶然の美というものが見えてくるわけです。そうすると、かつての桃山の茶人たちのやっていたワビとかサビとかというものに近いんだと思うようになりました。あれも一種の他力思想的なもので、無為の美というか、偶然できてしまったものとか、朽ちてしまった過程での美しさみたいなことを見ていたわけですから。」(2)
赤瀬川は、予期せぬ物体の観察を重視し、それが芸術家の意図的な力を超えた、創造的(あるいは破壊的?)な根本的な他者性を示すものと考えている。こうした偶然発見されるトマソンに触れることによって、外部の世界と自分自身の間に生まれる新鮮で純粋な感覚を大切にしている。こうして赤瀬川は、トマソンおよび都市観察の美徳を称賛している。「トマソン探し」は感受性を高め、鋭敏な視覚を育てる。トマソンとの出会いは感性豊かで楽しい冒険となる。超芸術トマソンに心を奪われる散歩者の感情の分析を通じて、日本美学のいくつかの概念に親しみ、さらに広く芸術や視点、そして自己についての考察を深めることができるのである。
脚注
(1) AKASEGAWA Genpei, Anatomie du tomason, textes réunis, traduits du japonais, annotés et présentés par Sylvain Cardonnel, éditions Les presses du réel, 268 pages, 2024.
ISBN : 978-2-37896-402-3
https://www.lespressesdureel.com/ouvrage.php?id=10241&menu=0
(2)赤瀬川原平(1996)『トマソン大図鑑、無の巻』、筑摩文庫、p.21。
参考文献
赤瀬川源平(1985)『超芸術トマソン』白夜書房
赤瀬川源平(1988)『芸術原論』岩波書店
赤瀬川原平(1990)『千利休 無言の前衛』岩波新書
赤瀬川源平(1996)『トマソン大図鑑 無の巻/空の巻』筑摩書房
Posted by カルドネル シルヴァン
カルドネル シルヴァン
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