PANORAMA STORIES
ヴァージニア・ウルフと歩くキュー植物園の夏 Posted on 2017/07/27 清水 玲奈 ジャーナリスト・翻訳家 ロンドン
「楕円形の花壇から、100本くらいの茎が伸び、中頃でハートや舌の形の葉が広がり、先端では、赤や青や黄色の花びらがまだら模様を浮かび上がらせて咲き誇る(略)それから頭上を風がさっと吹き抜け、色彩が上空へと放たれたように、7月のキュー植物園を歩く男女の目には映った」
モダニズム文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ(1882年~1941年)の短編「キュー植物園」(1919年)の冒頭の一節です。花々が色鮮やかに咲き誇る庭園、そしてそこを散策するさまざまな人たちを描写したこの作品は、後期印象派の絵画にもたとえられています。
物語の中で、この庭園を家族とともに訪れている男性のひとりは、妻子から距離を開けて歩きつつ、思い出にふけります。15年前の夏の午後、この場所でリリーという女性に求婚した時、彼女が履いていた靴の銀の留め金がせわしなく動いていたこと、トンボがどこかに止まればイエスの答えがもらえると念じたのに、飛び続けていたトンボ――。過去の恋人との思い出にふけっていたと打ち明ける夫に、妻は平然とこう答えます。
「男女が木の下に寝そべっている庭園では、誰しも過去を思い出すものよ。あの人たちは私たちの過去、その残骸ではないかしら、木の下に横たわる幽霊……私たちの幸福、私たちの現実」
その妻の方は、20年前の少女時代、キュー植物園で赤い睡蓮をスケッチしていた時、突然首筋にキスされたことを振り返っていました。夫との会話で我に返って子どもたちに話しかけ、少なくとも表向きは平和に、家族は散歩を続け、木々の間に消えていきます。
ウルフは、この作品を書いたころ、夫とともにキュー植物園の近くに暮らしていました。
家の裏窓からは園内のパゴダ(仏塔)が見えたといいます。繊細な感性を発揮させて、植物園を歩くさまざまな男女の人生に思いを馳せ、美しく感傷的な短編に結実させました。
そこには、無常の生に対する諦念とともに、躍動感と不思議な明るさが漂います。
132ヘクタールという広大な敷地に広がるキュー植物園。
熱帯植物を集める貴族の庭として1759年に創設され、今では世界最大の植物のコレクションを誇り、ユネスコの世界遺産に指定されています。
ウルフが眺めていた1762年建造のパゴダは修繕中ですが、来年にも再公開の予定です。
敷地内では季節ごとの花が楽しめるうえ、宮殿、植物画のギャラリー、それに日本庭園などもあり、楽しみが尽きません。
ここを夏に訪れたら、やはりまずは、ウルフにオマージュを捧げるべく、蓮池のある小さな温室へ。
湿った温かい空気に包まれ、流れる水音を聞きながら睡蓮を眺めていると、時の流れを忘れてしまいそう。
温室を出ると、制服のワンピースを着た少女たちがばら園でピクニックをしていました。
その脇を抜け、娘が乗ったベビーカーを押して、大樹と若木が入り混じった杉の並木道を歩きながら、私の頭にもいつしか、個人的な記憶がよみがえります。
学生の頃、亡き父と初めて訪ねたキュー植物園。それからちょうど20年前、ロンドンで過ごした2度目の夏、この国ではありふれたイングリッシュ・ローズに感激して写真を撮り続ける私をからかったあの人のこと。
ウルフの「キュー植物園」では、ちょうどその頃の私のような「若さの盛りか、あるいは若さの盛りの前の季節にある」男女も登場します。
ふたりは植物園の入場料をめぐる何気ない会話がかみ合わなくなり、花壇の縁にたたずんで黙り込みます。そこにのしかかるのは、「意味の重さに比して短すぎる翼を持った言葉」という現実。私も過去に、何度か、それを実感したものです。
――などと上の空の自分に気付いてふと、ベビーカーの中で静かになった娘をのぞき込むとお昼寝中。温室や草の上ではしゃぎまわった心地よい疲れに大満足、という寝顔でした。
キュー植物園には100年前と変わらぬ風景が広がるようでいて、草花も木々の葉も、それに訪れる人も年々入れ替わっていきます。私は、そして娘は、将来どんな人とこの庭を歩くのでしょう。
花も出会いも人生も、はかないからこそ美しい。
夏のキュー植物園を歩くと、そんなことを思います。
Posted by 清水 玲奈
清水 玲奈
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ジャーナリスト・翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科修了(表象文化論)。著書に『世界の美しい本屋さん』など。ウェブサイトDOTPLACEで「英国書店探訪」を連載中。ブログ「清水玲奈の英語絵本深読み術」。