PANORAMA STORIES
夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・ヨー君は元気?編」 Posted on 2022/07/19 辻 仁成 作家 パリ
隣のヨー君はとにかくませた子供だった。大人たちは彼のことを“大人子供„と呼んでいた。六歳くらいですでに革靴を履いていたし、いつも東京の匂いをぶんぶんさせたお洒落な服を着ていた。鈴木のおばちゃんと呼ばれていた彼のお母さんはそれは美人で博学で、しかも料理の腕前は、のちに大阪を代表する料理の先生になり、NHKなどで料理番組なども持つほどであった。
ヨー君の両親はともに東京の青山学院大学テニス部出身だったせいか、ポロシャツの眩しい家族でもあった。同じ社宅なのに、鈴木家へ遊びに行くと、ステレオや家具や食器や花瓶などがハイカラで、玄関なんかにスイスの国旗が掛けられていたりして、まるで外国にでも行ったような気分になった。
うちに戻ると父さんが居間でふんぞりかえって相撲を見ていた。ヨー君のお父さんはステレオでクラッシックを聞きながら紅茶を呑んでいた。ヨー君のお母さんはワンピースの上に白いカーデガンなどを羽織っていた。うちに帰ると父さんが四角四面の仏頂面でニュースを見ていた。違う、と僕は子供なからに思った。何か違うんだろう、と両方の家を観察したものだった。
おじさんは映画俳優みたいな感じだった。お腹も出ていなく、テニスラケットが似合いそうな人だった。うちの父さんは物凄く太っていて毎晩サントリーの角を抱き抱えるようにして呑んでいた。
鈴木家と辻家は隣同士ということで本当に仲がよかったが、本質的なところでは全く違うファミリーであった。一度、鈴木家でケーキを御馳走になったことがあった。カナダの知り合いから送られてきた、当時非常に珍しいホームメードのケーキであった。
カナダがどこにあるのか、僕は知らなかった。ヨー君が、アメリカの北ですね、と標準語で言った。ああ、あそこのこつね、と負けず嫌いな僕は知ったかぶりをした。このお菓子はね、カナダの知り合いの手作りなの、この時期になると必ず送ってきてくれるのよ、と鈴木のおばちゃんが言った。それはそれは本当に美味しいお菓子で、僕はあんなに美味しいお菓子をいまだかつて食べたことがなく、自分の分はあっという間に食べてしまい、ものほしそうな顔で食べている人のケーキをじっと見てしまうのだった。
僕の母親はそういう僕をよく怒った。
「他人のものをほしがってはいけません」
それは大人になって今もよく思い出す言葉だ。僕が生涯大事にしている言葉でもある。他人のものを欲しがるのはいけない。当たり前のことだが、それは後の僕の人生を正しく導いてくれた。
「でもさ、母さん。これ本当にうまかったたい。僕はもうひとつ食べてみたか」
あまりに僕がそのお菓子を絶賛したので、ヨー君が、僕はまたいつでも食べられるから、と自分の分を僕にくれたのであった。大人になって僕は似たような形のお菓子とドイツで出会った。それはシュトレーゼンというお菓子であった。鈴木家で食べたお菓子はシュトレーゼンよりももっともっとしっとりとしていて美味しかった。幾層にも重ねられた生地の歯ごたえが素晴らしく、ただの焼き菓子なのに忘れられない美味しさであった。
ヨー君の家には世界中の街角の匂いがあった。リビングには色鮮やかな絨毯が敷かれていたし、家具はアンティックな洋物たった。外国の俳優のポスターが貼られ、おじさんが見ていたのは世界中の街角が写された写真集であった。その写真集をヨー君のお父さんとお母さんはまるで皇族の方々のような寄り添い方で楽しそうに眺めていたのであった。僕はそれらの雰囲気をじっと眺めていた。何かどう、うちと違うのか、といつも見ていたのだった。うちに戻ると父さんがステテコー枚で畳の上で大の字に寝ていた。
ヨー君の家で出されるご飯も当然、食べたことのない横文字の料理ばかりであった。僕の母さんも料理は上手だったが、なにせ鈴木のおばちゃんは後に大阪を代表する料理の先生になる人物である。どれもがとても凝っていた。
しかし僕を驚かせたのはそれだけではなかった。鈴木家ではフォークとナイフが普通にテーブルの上に並べられていたのである。カルチャーショックであった。ヨー君はフォークとナイフを使ってご飯を食べていたのだ。上手な使い方であった。ほれぼれするようなナイフさばきだった。肉がしゅるしゅると切れて、それが上品に口に運ばれるのだ。ああなりたい、と子供なからに僕は憧れた。
余談になるが高校生の頃、父さんが、テーブルマナーを教えてやる、と言いだし、函館山ホテルのレストランに連れていってくれたことがあった。僕が高校一年生のころのことだと思う。それがはじめての、いわゆるレストランでの外食であった。何を食べたかは思いだせない。今思い出す限り、フランス料理とかではなく、ハンバーグとかエビフライとか、そういう類のただの洋風料理ではなかったかと記憶している。
その時、父さんはナイフとはこうやって使うのだ、フォークはこちらの手でこんな風に使うのだ、と教えてくれたのであった。フォークとナイフを使いこなしたいと夢見ていた僕にとって、それは実にうれしい経験であった。ところが、最悪はその直後にやってきた。食事が終わり、デザートが済んで、いざ席を立とうとしていると、父さんはいきなりテーブルの上の爪楊枝入れに手を伸ばした。そして紙に入った爪楊枝を右手でぎゅっと掴んだのである。掴める限り、という感じであった。それを見ていた弟と僕はすばやく目を合わせた。ツネちゃんが先に、最悪、と言った。気がついた母さんが、あなた、ちょっと何しているの、誰かにみられたら恥ずかしいじゃない、と言った。僕は他人の顔をしてさっさとそこを出てしまった。僕がマナーを真剣に学ぼうと思ったのはその時だったのではないだろうか。テーブルマナーとは決まり事だけではなく、品格の問題なのだ、とその時に勉強させられることとなった。そういう意味では身をもってマナーを教えてくれた父に感謝しなくてはならないだろう。
お洒落な家庭で育ったせいか、ヨー君は僕の周辺の子供たちの中では抜きんでて都会的なませた子供であった。あの年齢にして、良質なもの、いいものとは何かということにすでに気がついていたのではないか、と思う。彼が読んでいた書物や、聞いていた音楽、などのセンスの良さはいつでも僕の憧れの的であった。
ヨー君は六歳頃になると一人で飛行機に乗って大阪の方へと旅行に行っていた。彼の机の中には外国旅行の時に手に入れた切符やスタンプなどが犇いていた。大人が集めるようなコインや切手や雑誌の切り抜きなどが、きちんと整理されて引き出しの中で眠っていた。それらはとても素晴らしいものに思えて仕方がなかった。どうして僕は鈴木家に生まれなかったのだろう、といつも隣の家族を見ていたのだった。
あれから三十五年ほどの歳月が流れた。僕は音楽の仕事に進み、小説家になり、映画を撮りはじめた。父さんは定年になり、福岡の市内に家を買って夫婦水入らずで暮らしている。僕は結婚をし、子供を作り、離婚をした。いろんな時間が僕に流れたように、世界も静かに変化をしていた。
一年程前、実家に帰ると、鈴木のおばちゃんがいた。弟が母さんと二人で洋風の陶芸教室を開いており、そこに大阪から月に一度習いに来ているとのことであった。僕は月に一度息子をつれて福岡の実家に戻る生活を送っていた。
鈴木のおばちゃんは相変わらず綺麗で多弁で意欲的な人であった。大阪の料理番組も大変評判とのことであった。
「ヨー君は元気?」
と僕は聞いた。うん、とっても、とおばちゃんは笑った。いつもいつも、会えば、ヨー君は元気、と僕は聞いていた。ヨー君と会いたいな、と僕はずっと思っていた。三十五年も前にお隣同士で過ごした記憶しかないが、僕には懐かしい友達であった。彼がジャズのギタリストになっているという噂は母さんから随分と前に聞かされていた。同じような表現の道に入ったんだ、とこっそり再会を楽しみにしていたのであった。
それから数力月後、僕は息子と福岡空港に降り立った。すると空港に鈴木のおばちゃんが出迎えてくれた。また習いに来ていたものだからね、と溌刺とした声で言った。じゃあ、今日は僕が美味しいスパゲッティをおばちゃんのために作りますよ、と約束をしたのだった。僕は自分でいうのもなんだが、料理には煩い。おばちゃんに、すごい、ヒトちゃん、おいしいじゃない、と褒めてもらえる自信もあった。
車には僕と母と父とおばちゃんと僕の息子が乗っていた。息子はおばちゃんの膝の上に乗っていた。息子はおばちゃんのおっぱいを掴んで、鈴木のおばちゃん可愛いね、とおどけて、みんなを笑わせていた。
「こら、おんなの子にそんなことをしたらダメじゃん」
と僕は息子をしかった。だって、可愛いんだもんいいじゃん、と息子は軽口を叩いた。そのやり取りが可笑しくてみんなが笑った。運転していた父さんはもう七十歳を越えている。すっかりおじいちゃんになってしまった。昔は気が短くて仕事の鬼だったが、定年になってから丸く穏やかな優しいおじいちゃんになった。人間は変わるのだ。変わることは決して悪いことではない。時間と折り合いをつけてみんな歳をとっていくのである。僕だって、昔にくらべれば少しは丸くなった。
「おばちゃん、ヨー君は元気?」
僕は何気なく言った。息子の悪戯は止まるところをしらなかった。父さんは運転をしながらまだ微笑んでいた。
「あのね、ヒトナリ」
と母さんが言った。
「なに?」
「ヨー君ね。もうこの世界にいないのよ」
まだ父さんは微笑んでいた。太陽が眩しくて、車の中は暑かった。息子は鈴木のおばちゃんに抱きついていた。
「ある日、突然……」
死因については誰もひとことも言わなかった。でもなぜだろう、彼は旅に出たのだ、と僕はすぐに理解することができたのだ。息子が鈴木のおばちゃんのおっぱいをまた触った。こら、やめなさい、と母さんが叱った。いいのよ、いいの、へるもんじゃないし、とおばちゃんが笑った。
「いつのこと?」
僕は前の方をじっと見て聞いた。
「もう二年くらい前かな。ヒトナリにはいいづらくてね」
おばちゃんが息子をぎゅっと抱きしめながら言った。息子が、いたいよ、と言った。静かに世界は変化する。僕は目を瞑った。この福岡で僕たちは太陽の光の中、走り回ったのだ。その後、二度と会うことはなかったが、思い出の中にはいつも君がいた。大人になって、どうして会わなかったのか、考えれば後悔ばかりである。でも会っていたら、杯などを交わしていたら、きっと、もっともっと悲しかっただろう。
僕たちはあの頃、世界を転覆させる野望に燃えていた。まだ世界なんて目じゃなかった。何も恐ろしいものはなかった。渡辺別荘には昆虫や小動物が溢れていた。そこら中に光が溢れていた。僕はみんなを引き連れて沢山のワルさをした。藤田君やミカちゃんがいた。やっちゃんやツネちゃんがいた。そしてヨー君もいた。一緒に遊べて楽しかったね、とぼくは言うだけだ。そして君のことをずっと忘れないよ、と言うだけだ。急いで行ってしまった人の分、僕は少しでも長く生きて君を記憶するね。それが残されたものの役目なんだから。
あの日々は僕の遺伝子の中にある。それを忘れないために僕はこれからも小説を書き続けるだろう。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。