PANORAMA STORIES
夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・好きという気持ちはどこから来るのか?編」 Posted on 2022/08/16 辻 仁成 作家 パリ
小学校の時、光子という名の女の子と友達だった。いつもリボンを頭に結んでいた。大きなリボンが彼女のトレードマークみたいなもので、遠くを歩いていても、すぐに分かった。お父さんがいなくて、お母さんと二人で暮らしていた。お父さんが死んだ日からずっとリボンをつけているんだ、とぼくに教えてくれたことがあった。ぼくたちは仲良しだった。ぼくが辛い時はよく彼女に慰めてもらったし、彼女が辛い時は、ぼくが彼女の父親のような役目をしていた。もちつもたれつという関係だったのかな。
ぼくは彼女が大好きだった。まだ好きと愛しているとの区別のつかない頃のことなので、厳密に言えば限りなく愛に近い「好き」だったと思う(余談になるが、ぼくは「愛している」という言葉より「好きだよ」という言葉の方が好きだ。大人になった今も、ほとんど「愛している」の方は使わない。たまに使うと嘘臭くて、嫌な感じがする。だからぼくはとても誰かを愛している時、「好きだ好きだ好きだ」と三回好きだを連発したりしている。その方が、近づけた感じがするからだった)。
好きという気持ちがいったい何なのか、あの頃のぼくは、そして光子も、それを必死で探していたように思う。いまだに人を好きになる理由を見つけ出せなくて、困ってしまう時もある。「どうしてぼくはあの人が好きなのだろう」。突然どこからともなくやってくるその感情に、ぼくはいまだにとまどったりする。子供の頃はそれがもっと混沌としていた。誰もそんなこと教えてくれないからだ。
光子もそのことに関して凄く悩んでいたようだ。ある日ぼくは彼女に、いま一番好きなものを見せてあげる、と言って休み時間に体育館に連れだされたことがあった。一番好きなもの、という響きを聞いたのも多分生まれてはじめてのことだったと思う。
彼女がぼくに見せてくれたものは、消しゴムであった。苺の形をした赤い消しゴム。当時匂いのついた消しゴムというのが出始めたばかりで、光子の持っていた苺の消しゴムというのは、テレビで宣伝していた話題の商品であった。値段も普通の消しゴムの三倍もするもので、それを使っている子はまだクラスにはいなかった。
「あー、凄い。これ、テレビで宣伝している奴だね」
ぼくがそう言うと、光子は、嗅がしてあげる、と言ってその消しゴムをぼくの鼻先に押しつけたのである。仄かな苺の匂いがぼくの鼻孔を剌激した。何故だか分からないが、その瞬間ぼくは目眩がした。キスをされたような息の止まる一瞬だった。ぼくの目はつぶらな彼女の瞳に釘付けだった。光子は微笑んでいた。ぼくに大好きな消しゴムの匂いを分けてあげたことで、秘密を教えた後の満足感のようなものを感じているようだった。
「私、何かに対してこんなに好きになったことなくて、どうしていいのか分からないの。毎日、この消しゴムのことを考えて、胸がはりさけそうなの」
彼女はそう言うとその消しゴムを小さな胸の中へ押し込んで抱きしめるような真似をするのだった。ぼくはじっとその姿を見ながら、少し消しゴムに嫉妬していたのである。
「でもね、辻君。私もっとこの消しゴムのこと好きになりたいの。どうしたらいいと思う?」
そう呟いた光子の目は恋する少女のあぶなっかしい輝きを放っていた。ぼくは何も言えなかった。
それからしばらくして、ぼくは光子がその消しゴムを使っているのを見た。あんなに好きだった消しゴムをごしごしと使っている姿は、何かに取りつかれたような迫力があった。すぐにその理由を聞いてみると、光子はこう答えたのだ。
「好きになりすぎたから、もう一つ買って使ってみることにしたの。私の心の中にある消しゴムヘの思いがどれはどのものか知りたかったんだ。こうやって普通に使っていくことで、好きだという気持ちへ近づけそうな気がしたの」
見ると、同じ消しゴムが鉛筆入れの中に入っている。そっちの方は使われていなく、まだセロファン紙も剥がされていなかった。それで使ってみて自分の気持ちが理解できたのかい、と聞いてみた。すると、光子は首を左右にふりながら、分からないの、と呟いた。好きという感情にまだなれていなかった頃のことなので、ぼくにも光子の苦しんでいる姿がよく分かった。
それからしばらくして、多分、三ヵ月ほど経った頃のことだと思うのだが、光子と一緒に下校していた時のこと。ぼくは急に消しゴムのことが気になって、あれはその後どうしたの? と聞いてみたのだ。すると、光子は笑いながらあっけらかんと答えるのだった。
「あんまり好きだという気持ちがつのりすぎて、仕方がないから、さらにもう一つ買って、それを食べてみたの。食べたら、私の体の中で一つになるわけじゃない。そしたら、もっと好きになれるって思ったのよ」
ぼくは驚いて、彼女の顔を見たが、光子はもう笑ってはいなかった。ぼくはなんだか怖くなって、それ以上消しゴムのことを聞くことができなかった。光子の横顔が自分とは違う世界を覗きこんでいるような気がして……。大人になって、女の人と恋に落ちるたびに、ぼくは光子のことを思い出す。愛が進展しそうになると、いつも食べられない程度に愛されようと、ブレーキを掛けてしまうのである。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。