PANORAMA STORIES
夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・幻の詩編」 Posted on 2022/07/21 辻 仁成 作家 パリ
うまれてはじめて書いた詩は「自転車」という詩で、小学校の時に何かの新聞に載った。二階に住むやっちゃんのお母さんがそれを教えてくれたのだ。僕は正直とてもうれしかったので、
「僕の詩が新聞に載りましたア」
と社宅中に言いふらして回った。言いふらしながら、詩を書きたくて仕方がなくなっていた。
すると母さんがどこからか現れ、腕をひっぱって、そんなはずかしいこと言いふらすものではない、と叱ったのである。
勿論、その時に書いた「自転車」は恥ずかしいものとして処分されてしまったのか、今はもう残っていない。子供ながらに、不可思議だったのは、どうして新聞に詩が載ったのに、それを喜んではいけなかったのか、ということである。
母さんは、たかがそれくらいのことでうぬぼれるな、と言いたかったのだろう。でも考えてみるならば、その詩こそ表現者としての僕の原点ということになる。
内容は、朝誰もいない街の中を自転車に乗って食パンを買いにいく、というたわいもない詩であった。でも褒められたのははじめてだし、ましてや印刷されたのもはじめてであった。恥ずかしくても素直に褒めてくれたら良かったのに、と子供なからに僕は首を傾げてしまった。
小学校の四、五年の頃はマンガに燃えた。友人にとてもマンガのうまい連中がいたので同人誌を作った。五、六人が参加していたと思うが、みんなかなりの腕前であった。井尻君というのがいて、その内容がとても子供の書く作風ではなかった。
いつもおしっこをしたくなる自分の体質を締まりの悪い水道の蛇口と対比させて描いた彼のマンガは、あれから三十年以上が経っているというのにまだ僕の記憶の中で新鮮な光を放っている。
主人公の少年が虫眼鏡で自分のおちんちんを覗き込むと、そこには壊れた蛇口から水が一滴滴っているのだ。主人公はそれを見つめて、「蛇口が壊れたかな」と呟く。小学生とは思えない表現力であった。
その時僕は、いつか僕もこういう表現がしてみたい、と思ったものだった。
僕は小学校の六年生の時に北海道の帯広に転校した。転校先の友達を集めて、マンガ同人誌を作り、福岡の仲問たちと交換をした。力作であったが、残念ながらそれらも手元には残っていない。
帯広に転校してから僕はすぐにギターを覚える。でも誰かの曲をコピーしたりするのは面倒くさくて、最初からオリジナル曲を作っていた。そこで書いた歌詞が久しぶりの詩ということになる。「遠い遠い国へ」という詩だった。言葉を大事にした音楽が好きだった。どちらかと言えば、言葉を伝えたくて音楽をはじめたようなところがあった。
中学三年生の時に、帯広から函館へ転校をする。そこで僕は同級生たちと詩の同人誌を作り、その売り上げを年末助け合い運動に寄付したりしていた。その時のガリ版の詩集は一つ残っているが、つまらない少女趣味の詩で、目にとまるものはなにもない。
高校生になってから、本格的に詩作に耽るようになる。はじめて小説にも取り組んだ。小説家になりたい、と思ったのはこの頃だった。函館という環境が向いていたのかもしれない。あっちこっちを転校しているうちに、土地土地の風土に触れて暮らしていくうちに、詩作が楽しくなっていったのかもしれない。いつしか、本当にいつしか作家になろうと決めていた。
東京に出たのは受験の時で、中野の遠い親戚の家にやっかいになった。その人は童話作家を生業にしていた。サラリーマンをやっていた自分の父親のように毎朝の出勤がなく、いつも家の仕事場にいて、ゴロゴロしていた。時々、リビングへやってきては、やはりゴロゴロしていた僕を捕まえ、ちょっとヒトナリ、面白いのが出来たんだけど聞いてみるか、と言って自分の作品を朗読してくれたりした。その時のインパクトは計り知れないくらい大きかった。
正直、今の自分があるのはこの人、東君平さんによるところが大きい。まったく何もないところに物語を産み落とし、それで生計を立てているのである。すごいなア、と感動したものだった。
小父さんはある時、また僕を捕まえた。
「なあ、ヒトナリ。わたしのお父さんの話しをききたくないかね」
僕は勿論、頷いた。
「わたしのお父さんはね、池に釣りにでかけたんだ。すると大きな鯉がかかった。それはそれは大きな鯉だった。つまりそいつはその池の主人だったんだな。鯉は食べられたくない一心でわたしのお父さんに、逃がしてくれたら池の底に眠っている金塊を全て差し上げます、というのだった」
僕はいつのまにか、君平さんの話しに引き込まれてしまっていた。
「わたしのお父さんは別に金塊が欲しかったわけではなかった。鯉があまりに可哀相に思えたので、池に逃がしてやったんだ」
君平さんはそこで微笑んだ。何か子供が企むような微笑みである。
「話しはそこでお終い?」
「いいや、この話しには長い結末がある。なあ、ヒトナリ。お前池とか川とか沼とかに行くと、魚がプカッて顔を出すの見たことないか?」
「あるよ。ある。プカッとでしょ」
「鮒とかドジョウとか小魚がプカッ、プカッつて顔だすだろ。あれはね」
「あれは、呼吸をして」
「違う。それは間違えている。あれは、例の鯉、池の主人の鯉がね、子分の小魚たちに、まだ池の辺に私のお父さんがいないか見てこい、と偵察にいかせているんだな」
勝ち誇った顔がいっそう勝ち誇った。僕は、その発想の豊かさに打ちのめされていた。自分の父親とさほど変わらない年齢の中年おじさんが、こんな柔らかい物事の考え方をしているのか、と。これが創作をする力、想像力というやつなのだ、と。
「そうか、鯉に命令された鮒とかドジョウはそうやってプカッて顔をだして、様子を見ているんだ」
小父さんは笑った。僕も笑った。
こんな生きかたもあるのだ、と思った。そして夢がある、とも思った。やっぱり作家しかない、と思った。
僕も小父さんみたいな生きかたがしたい、と言った。すると小父さんは、この世界はそんなに甘いものじゃない、というような顔をしてみせた。でも小父さんがなんとなく応援してくれているのは分かっていた。
それから五年ほどして、僕はまずロックミュージシャンとしてデビューした。どうして作家にならず、ミュージシャンになったのかは、説明すると長いので省くが、時代は音楽に開かれていったのだ。けれども、デビューするまでの道のりは生易しいものではなかった。
僕はその間、小父さんの家には出入りすることを控えた。甘えたくなかったのだ。
はじめて作ったレコードは、いじめ社会を批判した十曲入りの硬派なフルアルバム[『ウエルカムトゥーザロストチャイルドクラブ』エコーズ 1985年]であった。僕はそのレコードをこっそりと小父さんの仕事机の上に置いておいた。
小父さんはそれをたいそう喜んでくれたのだ。はじめて詩を書いた時は、恥ずかしいと言われた。あれから数十年後、僕は強面の小父さんに認められた。
小父さんは四十六歳の時に、ちょっとした病気がもとで亡くなった。亡くなる直前、小父さんは僕に歌舞伎町の外れで河豚を御馳走してくれた。二人きりで自由業について話し合った。僕にとっては親のような存在でもあり、最初の創作の先生でもあった。
その頃、ミュージシャンとして歩きはじめていた僕は一方で子供の頃からの夢であった文筆家になることを決意していた。小父さんに打ち明けたかどうかは覚えていない。もうその時の僕は大海しかみていなかった。
井の中の蛙、大海を知らず、という諺がある。僕はそれをこうもじった。
「大海の蛙、井の中を知らず」
これは表現者となって、様々なくるしい局面に立たされた時に自分に向かって呟いてきた言葉である。大した存在でもないのに、狭い世界でいばっている蛙さん、という意味の諺を引っ繰り返すと、世界に飛び出した蛙は、小さいことでくよくよせず、狭い業界の悪癖にもとらわれずに、ジャンルを超越して、思いっきり暴れまわっていいのだよ、という意味に変化するのだった。
あれからさらに十数年が過ぎた。小父さんが亡くなった年齢に近づきつつある。沢山のCDを発表した。沢山の詩を発表し、沢山の小説を書いた。沢山の映画も撮ってきた。あまり振り返らないようにしているが、時々振り返ると、目眩がする。そんなに生き急いでも仕方がないじゃないか、とよく周囲の仲間にたしなめられる。
何かを生み出したいという衝動をいつも大切にしてきたことだけは間違いない。世の中に褒められたことは一度もなかった。学級委員などの役を一度も経験したことがない。つまりあまり人望は厚くなかった。いつも変わり者だった。ただ、自分には、きっと何かがある、と信じてきた。今だって、周囲に何を言われても、自分ならば出来る、と信じることにかけては天才である。思い込みが激しいといえば、かなり激しい。ただ思い込んだら、最後までやり遂げる。そうやって一つ一つの創作の山を登ってきた。それにいつも山の頂ばかりを見上げている。すがすがしい未来ばかりを見つめていれば落ち込むことも少なくてすむ。
幻の詩「自転車」。それが現存していないことが僕にとっては大きな救いになっている。幻の詩は現存していない分、今や僕の記憶の中では物凄い詩となって、存在しているのだ。もしもそれがそのまま残っていたら、母さんが言うように「恥ずかしい」と感じ、最初から自分の限界を知ってしまって、もう詩など書かなかったかもしれない。
小学校の頃に僕の書いた詩が新聞に載った。作家になろうと思い込んだ。勝手な思い込みが僕を偉大にさせている。思い込むことは大切である。自分には才能があると思い込むことができれば、登れない山などないのかもしれない。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。