PANORAMA STORIES
音楽をめぐる欧州旅「ストラヴィンスキーとヴェネツィア」 Posted on 2023/04/05 中村ゆかり クラシック音楽評論/音楽プロデューサー ドイツ、エッセン
イタリア北部に位置するヴェネツィアは、118の島と150を越える運河、400もの橋が織りなす景色と、豊穣な文化が人々を魅了する夢のような場所だ。
私が初めてヴェネツィアを訪れたのは、10代の終わりころだったと思う。
立ち寄った聖堂で見上げたティツィアーノの巨大な祭壇画に心を奪われ、その場から動けなくなった記憶がある。
それからもう何年も季節を問わずヴェネツィアに足を運んでいる。
夕暮れの運河に浮かぶリアルト橋、霧覆うサンマルコ広場、一度は雪に包まれた幻想のヴェネツィアにも出会った。ゴンドラに乗って水辺を行くのも、歴史的な建造物や絵画が散りばめられた街を歩くのにも飽きることがない。
早朝にカフェ・スタンドで立ち飲みするエスプレッソは最高に苦くて美味しいし、夕方の喧騒のバーでワインを飲むと、冷たいワインと一緒に小さな幸せが身体中を駆け巡っていくような気持ちになる。
階段を上っては降り、橋を渡り、路地を曲がるたび、いつもより深く長く息をして、ここに滞在する喜びを味わい尽くしたくなる。
ヴェネツィアは、私にとってそんな場所だ。
ヴェネツィアには、多くの音楽家が活躍した長い歴史があるが、
その中でもロシアの作曲家ストラヴィンスキーは、ヴェネツィアにとりわけ強い思いを抱いていた。
サンクトペテルブルクに育った作曲家ストラヴィンスキーの人生に大きな転機が訪れたのは、20代後半の1910年代初頭のことだった。バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を主宰していたロシア人プロデューサー、ディアギレフと共に、パリでバレエ作品を次々と発表し、一躍、時代の寵児となった。
30代後半からおよそ20年間は、世界中を駆け巡りながらフランス各地に住み、フランスを第2の故郷と言った。
そして60歳に差し掛かったとき、今度はアメリカへと移り住んだ。本人は晩年、イタリアに住みたかったそうだが、医療の問題でアメリカに留まり、88歳でニューヨークに没した。
2つの大戦に翻弄され、いくつもの国とホテルと家を転々とし、世界を渡り歩いたストラヴィンスキーにとって、水の都ヴェネツィアは比類のない特別な場所だったはず。
なぜならヴェネツィアこそが、ストラヴィンスキー自身が決めた生涯最後の目的地だったからだ。
ストラヴィンスキーが初めてヴェネツィアを訪れたのは、1911年。数ヶ月後に初演されたバレエ《春の祭典》の音楽のアイディアを、プロデューサーのディアギレフに初めて聴かせたのも、ちょうどこのヴェネツィア滞在中のことだった。
仕事では頻繁にヴェネツィアへやって来た。「不死鳥」の名で知られるフェニーチェ劇場ではオペラの初演もしたし、ヴェネツィア・ビエンナーレのためには何度も仕事をした。
ヴェネツィアでの宿は決まって、カナル・グランデ(大運河)を一望する歴史的ホテルの一室で、部屋には窓から吊り上げてピアノも運び入れていたそうだ。
1971年4月6日、ストラヴィンスキーはニューヨークで亡くなった。
そして、その亡骸は彼の遺言に従い、飛行機でローマへ飛び、ヴェネツィアへと向かった。
ヴェネツィア本島で執り行われた葬儀には、3,000人もの人が参列し、フェニーチェ劇場のオーケストラと合唱団が葬送の曲を奏でた。テレビでも中継されるほど大きな注目を集めたそうだ。
葬儀の後、花で覆われた棺はゴンドラに乗せられ、ヴェネツィアの墓地島、サン・ミケーレ島へ向かい厳かに漕ぎ出された。
そしてストラヴィンスキーは、サン・ミケーレに眠るディアギレフの側に埋葬された。
ディアギレフがその地に埋葬されてからは、既に40年以上が経っていた。
ストラヴィンスキーは、愛するヴェネツィアの地で、ようやく再会した朋友になんと声をかけたのだろう。
「僕は君を兄弟であるかのように待っていたよ。」
この言葉は、数十年前の二人の再会の際に、ディアギレフがストラヴィンスキーに放った言葉だ。
そんな風にきっと二人は再会を喜びあったのかもしれない。
<ヴェネツィアの北東に浮かぶサン・ミケーレ島>
ヴェネツィア本土での埋葬が不衛生だと考えられていた19世紀の初めに、ヴェネツィアの墓地として整備された世界的にも珍しい墓地の島。
ストラヴィンスキーは、なぜヴェネツィアを最後の地に選んだのだろう。
愛する土地に眠りたかったのか。あるいは友人ディアギレフの側に眠りたかったのか。
最後に瞼を閉じた時、心にはその両方が浮かんでいたのだろうか。
実のところ、ストラヴィンスキーとディアギレフは、ディアギレフが亡くなる1929年以前から、さまざまな理由で長く交流が途絶えていた。
それでも、ディアギレフの亡き後、ストラヴィンスキーはサン・ミケーレの彼の墓を参り、彼が真の友だったことを幾度も回想した。
バレエや音楽だけでなく、ピカソ、シャネル、コクトーなど、舞踊、芸術、文学、装飾と、同時代のあらゆるジャンルの一流芸術家の才能を引き出したディアギレフは、ストラヴィンスキーにとって、自分の音楽を愛し、その成長を信頼し、その才能を最も適した形で世に届けた唯一無二の人だったのだろう。
今日もヴェネツィアは、訪れる世界中の人々を魅了している。
きっとストラヴィンスキーも、ディアギレフと共にヴェネツィアの海を眺めながら、尽きることのない音楽の話をしているのだろう。
Posted by 中村ゆかり
中村ゆかり
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専門は、フランス音楽と演奏史。博士課程在学中より、音楽評論とプロデュースを始める。新聞、雑誌、公演プログラム等の執筆、音楽祭や芸術祭のプロデュース、公共施設、地交体主催の公演企画、ホールの企画監修などを手掛ける。また5つの大学と社会教育施設でも教鞭を執る。2016年よりドイツ在住。