PANORAMA STORIES
ヴェネツィアのアックア・アルタ Posted on 2017/11/25 吉田 マキ 通訳・コーディネーター ヴェネツィア
ヴェネツィアはアックア・アルタの季節だ。
アックア・アルタ(acqua alta)とは、ヴェネツィアで秋から冬にかけて起きる異常に高い潮位のことを指す。
満月や新月の時期の満潮時に、シロッコやボーラなどの風が海水をヴェネツィア湾に吹き寄せ、海面を押し上げる。これがヴェネツィアに、アックア・アルタを引き起こす。
サンマルコ広場が水浸しになっている映像を、見たことがあるかもしれない。
もっとも、サンマルコ広場はヴェネツィアで一番地盤の低い場所で、アックア・アルタとは言えない潮位でも簡単に浸水してしまうのだが。
釣りや潮干狩りの時以外、漁業や船舶関連の人でもない限り、日常的に潮見表を確認することはないと思う。
だが、アドリア海北部の浅瀬に築かれたこの都市では、6時間ごとに満ちては引いていく潮の高さに応じて生活していると言ってもいい。
たくさんの小さな島で構成されているので、地盤の高さがそれぞれ違っている。自宅周辺の道は乾いていても、ひとつ橋を越えたら浸水していて歩けないことが普通にあるのだ。
多くの家庭には潮汐カレンダーがある。とりわけアックア・アルタの時期である10月から12月は、ヴェネツィア潮汐予報本部の出す数値を、サイトやアプリなどでこまめにチェックする。
潮の高さ、歩くルートによって、普通の靴でよいのか長靴かを判断する。太ももまでの長靴が要ることもある。一階の住居や店舗は、入り口に衝立を取り付け水の侵入に備える。
水上タクシーや運搬用の船も、潮位によっては水面と橋との空間が保てず、通行できない運河がでてくるからだ。
満潮の予測潮位が110㎝を超える時、その3時間前にアックア・アルタ警報のサイレンが街に響き渡る。
移住した当初は、まさに緊急時を感じさせるそのサイレンの音に驚いた。今は、警報も進化して4段階の音のトーンを組み合わせ、およその潮位もサイレンで分かるようになっている。
けれども地元の人は、潮汐予報本部の値を鵜呑みにはしない。自分たちの経験によるセンサーに従い、「来る」と思えば備える。
生暖かいシロッコの匂いや潮目を読んで、満潮時間の前でも「もうこれ以上は来ない」と思えば警戒を解く。
そして水が引いた後は、海水でぬれた部分を水道水で洗い流す。
クリスマスの夜や大晦日にアックア・アルタのサイレンが鳴り、夫の工房に溜まった水をポンプで排水したりしたこともある。
川の氾濫と違い、アックア・アルタは幸い人的な危険はない。時々ネズミの死骸が浮いているくらいで、訪問者にとっては興味深い現象でもある。
だが、住民や商売を営む人には悩ましい問題だ。歴史的価値の高い建築も、海水の被害を受け続けている。
莫大な費用をかけた国のプロジェクトである可動式の防潮堤は、贈収賄の逮捕者を出した挙句、ほとんど機能していない。
いかにもイタリアらしい話だが、地元の人間は笑えない。アックア・アルタの軽減に、少しは期待していたのだ。
潮の干満は、気象条件と重なって時にアックア・アルタを引き起こす。しかし、ラグーナの上にあり城壁を持たないこの街を、外敵から守ってきたのは、他ならぬこの潮の満ち引きでもある。
ヴェネツィアの草創期から、沼沢地の地形や潮の干満を利用して、船の進路に杭を打って封鎖したり、浅瀬におびき寄せて座礁させたりして敵の侵入を阻んできた。
まるで海が呼吸でもしているように、定期的に海面が膨らんだりへこんだりを繰り返す。
それも地球が月と太陽と、引きつけ合ったり遠のいたりしているからだという。こんなに広い宇宙で、遠く離れたお互いが影響しあっている。上下する運河の水位で、あらためてそれを知る。
ときおり起こるアックア・アルタは、そんな地球の鼓動を感じられる街の住民税のようなものかもしれない。
まあ、そういう風にでも考えて、ヴェネツィアは当面アックア・アルタと共存していく他ないのだろう。
Posted by 吉田 マキ
吉田 マキ
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神戸出身。90年にイタリア、ペルージア外国人大学留学。彫刻家および弦楽器創作アーティストのイタリア人との再婚により、娘を連れて2003年よりヴェネツィア在住。夫の工房助手の他、通訳、コーディネーター、ガイドなど。