ナポレオンや作家ミュッセが「世界一美しい大広間」と讃えたサンマルコ広場。この街を訪れる人が最初に目指す場所でもある。
9世紀に聖マルコがこの街の守護聖人となってから、市民たちはここに集まるようになる。今でもここはヴェネツィアにとって、最も大事な祭事が執り行われる場所といえる。
 

ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学の卒業式もその一つ。いつもは多くの人々が自由に散策するこの広場に、その日は柵が設けられ、出入りが制限される。先日、私はその大学の卒業生の親として参列する機会に恵まれた。
 

 
 
こちらの学校には入学式も卒業式もない。唯一存在する大学の卒業式でさえ、英米並みに華やかになったのはつい最近の事だとか。式への参列者も増えた。卒業式という節目が学生はもちろん親にとってもいかに大事な催事か理解が広がったからに違いない。

「これまでの道のりには、様々な人の助けがあっただろう。それに感謝して明日からまた新しい一歩を踏み出してほしい。君たちを誇りに思う。ご家族はもちろんだろう。おめでとう！」

学長の言葉が響き渡る。
 

 
 
そして、特別ゲストは、元F1レーサーで、ロンドン、リオのパラリンピックの金メダリスト、アレックス・ザナルディ氏だ。ボローニャ出身の彼は、44戦F1のレーシングドライバーとして参加し、CARTに転向して二度チャンピオンに輝いている。
2001年9月ドイツのサーキットに参戦中、22番手スタートにもかかわらず、徐々に順位を上げトップに立つ。だが、残り13周という所でクラッシュ、ベルリンの病院にヘリで救急搬送された。
出血多量と両足切断、8回の心肺停止、8日間の昏睡、16回の手術の後ほぼ絶望視される中よみがえり、6週間後に退院、様々な義足のテストやリハビリをはじめた。
2003年にはレース復帰。5月には事故が起きたドイツのラウジッツに戻り、やり残した13周を走りきり、あの日のレースを完結させた。
2009年ハンドサイクリングに転向し、パラリンピックで4個の金メダルと2個の銀メダル、世界選手権で8個の金メダルを獲得している。
 

 
 
「ドイツで大量の輸血を受けたせいか、嫌いだったビールがその後、大好きになってね。いや、本当に」

卒業セレモニーの壇上で、アレックスはそう言って私たちを笑わせた。
そして、優しい笑顔で、学生たちに語り掛ける。

「人生というのは、僕らが考えるよりずっと、奇想天外なものです。そう、だからいつだって好奇心を忘れないでほしい。好奇心こそが大きな化学変化を起こす触媒になる。そして、何かを実現したいなら、本当にそれが君の心からしたい事か、君自身に問うてほしい。それはパッションによってのみ導かれるものです。ファンにセルフィーを頼まれるためだったら、実現はしません」

今年51歳の彼は、少年のような輝く瞳で、2020年のTOKYOを見据えている。
 

 
 
サンマルコ広場では、昔から大切な行事、活気のある市場や様々なショーが催されてきたが、その真逆、別れの儀式であるお葬式がここでは二度行われている。

最初はダニエーレ・マニンという人の葬儀で、1848年オーストリア帝国の占領下にあったヴェネツィアで蜂起し、ヴェネツィア臨時政府の大統領となった人である。だが一年半近くの抵抗もむなしく、包囲され降伏した。その後はパリに移住し、その地で没している。
 

 
 
そして、2015年11月。パリの同時多発テロで、命を落とした唯一のイタリア人がいた。パリに留学中でバタクラン劇場にいた、ヴェネツィア出身のヴァレリアという女性である。26歳の彼女は、娘が通った高校の先輩にあたる。
葬儀には、イタリア共和国大統領をはじめ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三つの宗教の代表が参列し、宗教間の対立ではないというメッセージが、まさに象徴的に示された。ヴァレリアはその架け橋であり、カ・フォスカリ大学経済学部校舎の傍にかかる橋に、実際、彼女の名が付けられた。　　
若きヴァレリアの無念を思うと、心が張り裂けそうになる。同じ思いの大勢のヴェネツィア人がサンマルコ広場を埋め尽くした。
 

 
 
学長から一人一人へ卒業証書の授与の後は、グランドフィナーレだ。今回卒業した917人の角帽がサンマルコ広場の空に舞った。

サンマルコ広場から旅立つ学生諸君、君たちはこれから多くの苦難を乗り越えてゆくだろう。苦難にぶつかる度、君たちは自分が何者であるのかを探し続けるに違いない。そして、とにかく生きなければならない。大きな壁にぶち当たったら、サンマルコ広場に戻ってくるといい。そこが君たちにとって、出発の場所なのだから。