PANORAMA STORIES
「人生は後始末の連続である。父から手渡されたもの」 Posted on 2022/03/30 辻 仁成 作家 パリ
最期という漢字は「死に際」を意味する。
必ず訪れる死に際だが、いったいどのような最期をぼくは迎えることになるのであろう。
それがいつ、どこでか、わからないのが人生というものである。
ぼくにももちろん父親がいた。
しかし、ぼくには父と遊んだ記憶があまりない。
抱っこされた記憶も、語り合った記憶もほとんど残っていないのだ。
キャッチボールを教えてもらった記憶が微かにある程度、自転車の乗り方を習った記憶がちょこっとある程度・・・。
怒鳴られた記憶、びくびくしていた記憶はたくさんある。
ぼくの父は、怖い人であった。厳しかった。
「人に迷惑をかけるな」
「人のものを欲しがるな」
「手に職を持て」
生前、父に、この三つを教えられた。
ぼくが記憶する父の言葉である。
威厳の塊で、家の中をのしのしと歩いていた。
一方、ぼくと弟の恒久はこそこそ逃げ回っていた。
日曜日が嫌いなのは父が家にいたからである。
反面教師というが、ぼくが自分の息子とたくさん語り合うのは、間違いなく、自分がしてほしかったこと、だったからであろう。
バレー部員だった息子とバレーボールの特訓を毎日やったのも、息子とふたり旅を続けてきたのも、美味しいご飯を毎日せっせと作ってきたのも、彼の中に、自分には薄い「父」のいい思い出をたくさん残してやりたい、という思いからであった。
ところが、この頃、父を再評価している。
まず、いまの自分が生きていられるのは父のおかげであること。
目に見えない労苦を父はたくさん背負っていたであろうこと。
そして、彼の最期である。
父はエリートの猛烈社員だったが、ライバルに敗れ、最後は窓際族であった。
一時は社長になるか、とも言われていた人だったから、母に言わせると悔しい晩年であったろうということである。
そういう弱いところを家族には見せない人でもあった。
一方、老いた父は人が変わったかのように、いつもニコニコしていた。
息子が作家になったことが嬉しかったみたいで、近所の本屋に通い詰めていた、とやはり母から、聞いた。
でも、そういうことを知らないぼくは父の笑顔が嫌だった。威厳がなくなった、と思って仕方なかったのだ。
思えば、父は、家族をみんな敵にしていた時期が長すぎた。
だから逆に、寂しかったろうな、と思うこともある。
自分が父親になり、子供に反抗期がやってきて、はじめて、父の気持ちの端っこを共有することになる。
父は重い病気にかかり、入院をした。
看護婦さんと仲良くしている、と母から聞いて安心していた。
でも、長くはないだろう、ということであった。
そして、ある朝、ご飯を食べ、トイレに行って、すべてを水に流した後、そのまま永眠したのである。
きれいさっぱり、誰にも迷惑をかけず、逝っちゃったわけだ。
家族にあまり好かれていない父であったが、彼の死後、彼には多くのファンがいたことがわかった。
ぼくや弟や母親が驚くほどの人たちが父のために集まり、そして彼がどんなに愛らしい人だったのかをとくとくと語り、泣くのであった。
若い女の人が、父の棺の前で泣き崩れて号泣するのを、その息子は呆気にとられて眺めたものである。
残された家族はきょとんとしていた。
外面がいい人だったのだろうか?
それともそれが彼の本当の素顔だったのか・・・
時が経ち、憎めない人だったのかもしれない、と思うようになった。
火葬の後、ごろんごろんと大きな骨が出てきた。
ぼくは不謹慎にも思わず笑ってしまったのである。
父らしい形だ、と思ったからである。
母も目を丸くして、あら、大きい、と唸っていた。
父の最期はぼくの心に焼き付いて離れなくなった。
ぼくは父の背中を見ながら、今、息子を世に送り出そうとしている。
今日も読んでくださり、ありがとう。
コロナ禍や戦争、心配がつきない日々ですけど、辻家は、前向きにがんばります。
ということでお知らせ。
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Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。