PANORAMA STORIES
世界のシェフ「ギー・マルタン」 Posted on 2017/01/27 辻 仁成 作家 パリ
ギー・マルタン氏とはじめてお会いしたのはエリゼ宮で行われたオランド大統領主催の晩餐会でのことだった。
同じテーブルだったこともあり、自然に言葉が交わされた。
あなたは何をされているの? と訊かれたので、作家ですよ、と答えた。
あなたのご職業は? と訊き返すと、シェフです、と彼は微笑みながら言った。
ぼさぼさの哲学的な頭髪、笑顔絶やさぬ物静かな人物、第一印象は料理人というよりむしろ詩人とか作家のようであった。連絡先を交換しあい、私は本を送ることになる。というのも、彼のレストランには思い出があった。
パリに移り住んだ頃、私はマルタン氏がオーナーシェフを務める「Le Grand Véfour」(ル・グラン・ヴェフール)にたびたび通っていたのだ。
もちろん、この人がシェフだとも知らず。
パレ・ロワイヤルの回廊の一角という素晴らしいロケーションもさることながら、落ち着いた調度はフランスの歴史そのもの。柔和な光りが心地よく、木目の安心感に包まれた居心地のよい空間である。
昔のようにパレ・ロワイヤルを散策してから私は入店した。
マルタン氏が出てきて握手を交わす。舞台がはじまる前に演出家に出会えるだなんて、なんて贅沢な一瞬であろう。
忘れもしない、15年前のこと。
知り合いと昼食を摂っていると、ベビーカーを押して一人の若い女性がやって来た。
赤ん坊は泣いており、私はちょっと驚いた。
その時の給仕たちの対応が素晴らしかった。あるいは彼女は常連なのか、しかも何かわけありの。
端っこの席に陣取り、まるで映画のように、さっさと一人食事をはじめた。
その間、年配の給仕が上品に赤ん坊をあやし続けた。手際よく、他の客に不愉快な思いをさせるわけでもなく、
むしろ微笑ましい光景ですらあった。
久しぶりに訪ねてみると、まさにその時を彷彿とさせる給仕たちのそつのない、紳士的な、申し分のない素晴らしいホスピタリティは健在。赤ん坊はもはやいなかったけれども。
思えば、あの子はもう、15歳になっているはず。
星付きレストランにもよるけど、星を持っていることばかり意識し、客が寛ぐことのできない店が意外と多い。
技術や美意識ばかりを追求したモダンな店に胃も心も疲れきる。
Le Grand Véfourで食事をするとあくまで客が主役であることを思い出させてもらえる。
そこにはギーの哲学が反映されている。まさに、何度も読み返したくなる素晴らしい小説と出会ったような喜び。
知的で奥深く、包容力のあるレストランだ。
ここの客で幸福だ、と思わせてもらえるレストランなんてそうはない。
ギー・マルタン氏の味付けはどこまでも優しく、舌先を喜ばせ、心を寛がせながら、胃袋に余計な負担をかけない。
時間を注ぎ丁寧にとられたブイヨン、繊細で控えめな塩加減、出しゃばらないソース、なのに野菜も魚も肉も素材の旨味をしっかりと主張してイキイキしている。
一口味わっただけで、マルタン氏の食へのこだわりと情熱が届けられる。
スターシェフは増えたけど、ギー・マルタン氏のような存在は稀有だと思う。
このレストランのはじまりは18世紀中庸、もともとはカフェであった。
その後、何度かオーナーが変わり、美食レストランとして19世紀、20世紀を生き抜いた。
ナポレオン、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン・コクトー、アンドレ・マルローらが時代を超えてここの常連に名を連ねてきた。その風情はフランスそのものであり、一見の価値がある。
1991年からシェフを務めたマルタン氏が2011年からオーナーシェフとなった。
21世紀までこの店はパリの胃袋を喜ばせ続けている。それもすごいことじゃないか。
素晴らしい読後感にも似た至福に包まれるレストラン。私は光り溢れるLe Grand Véfourをおすすめする。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。