PANORAMA STORIES
僕達は闇をくぐり抜けていく Posted on 2018/02/12 川合 英介 建築士 ミュンヘン
先日、Allerheiligenhofkircheアレアハイリゲンホフ教会 で息子達と音楽劇を鑑賞してきた。新古典主義建築家、クレンツェの設計したこの教会は第二次大戦の爆撃で屋根が吹き飛び、ひどい損傷を受けた。改修に際して戦争の記憶を忘れないために、破壊の痕跡は意図的に残され、現在はコンサート・イベント会場として使用されている。むき出しのレンガは、その傷跡によりはかなく、しかしその素材感、明快なストラクチャーによって美しくもある。
ここミュンヘンはナチスが誕生し、ヒトラーとナチスが台頭した都市でもある。このことを、ミュンヘンは忘れることなどできないし、そもそも忘れることは決して許されない。
1913年にウィーンからミュンヘンに移り住んだ当時無名のヒトラーは、売れない絵描きとして過ごした。一兵卒として第一次世界大戦に参加。敗戦を機にミュンヘンに戻る。1919年、イザール都市門の近くにあったシュテルンエッカーブロイという酒場で、ナチス党の前身、ドイツ労働者党の集会があった。この集会に参加したヒットラーは演説家としての才能を見出され入党、その後、党内にて頭角を現す。1923年、ヒトラーの乱を起こして投獄され、ミュンヘン近郊の監獄にて「わが闘争」を執筆。1933年、政権を奪取し総統となり、第二次世界大戦へと突き進んだ。
この人類の悲劇へと猛進する一方、ヒトラーは、建築、都市計画にも多大なエネルギーを注ぎ込んだ。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルグ、ニュルンベルグ、リンツを総統都市として選定し、大規模な都市改造を計画している。そのメインは建築家アルベルト・シュペアーを中心としてベルリンを世界都市「ゲルマニア」とするべく目論んだ都市・建築計画であるが、自ずからを総統へと育て上げる母体となったミュンヘンをも、彼特有の方法で慈しんだ。
ミュンヘンはナチスの躍進エネルギーに満ちた都市として、Hauptstadt der Bewegung <躍動の首都>と命名された。主にケーニヒス広場周辺はナチスの官庁街と化した。この広場は既にヒトラー好みの新古典主義建築群からなり、前出の建築家クレンツェによって19世紀前半に計画された。また、Haus der Kunstがナチス芸術を披露する場として建てられた。それは戦火を免れ、現在も美術館として使われている。
ミュンヘンの改造計画を主に担当したのは建築家ヘルマン・ギースラー。その計画は、細部に目を向けると興味深い点は多々あるけれど、強力な直線街路と、その沿道に建つ均質で威圧的な新古典主義的様式建築が特徴的で、ミュンヘンの既存のバロック都市軸を踏襲しているなぁという凡庸な印象を受ける。
しかし、メガロマニアと称されるバカみたいに巨大な建築物群は強烈だ。それに加えて、おぼろげな何かが僕の興味を引いた。それがなんなのかすぐにはわからなかったけれど、最近その正体をつきとめた。つまりはこうだ。
ミュンヘンの周縁部分、北、西、南に三つの新街区と、その街区を貫く壮大な街路が計画されていて、それらは北はニュルンベルク・ベルリン、西はシュトゥットガルト、南はザルツブルクへ向かうアウトバーン(高速道路)へとつながる。この街路とアウトバーンの結節点にはヒトラーの暴力組織を称揚する建物が計画された。北軸の終点にはSchutzstaffel(SS、通称、親衛隊)のフォーラム、東西軸の終点にはSturmabteilung(SA、通称、突撃隊)の、南軸にはHitlerjugend(HJ、ヒトラーユーゲント)のフォーラムがそれぞれ配置される。つまりナチスの暴力的イデオロギーが都市の造形へ組み込まれている。
ところで、これがどういうわけか、七世紀末に日本で計画された藤原京の構成論理に似ているのだ。藤原京では道教の神仙思想に基づき大和三山をグリッド都市基盤の中に取り込んだという説がある。大和三山である耳成山、畝傍山、香具山が、すなわち仙人の住む方丈、蓬莱、瀛州山に相当するそうだ。ナチスの暴力組織の配置が藤原京の都市基盤に取り込まれた大和三山を連想させるという奇妙なアナロジーが当初、僕が感じたおぼろげな何かの正体だった。しかしそれよりも、古今東西を問わず、強者の世界観やイデオロギーを都市的規模で出現させようとする、権力者と計画者の心のありようが、より強く僕の興味をかきたてるのだった。
ナチスによって増幅され、都心部に蓄積された妄信が、都市軸を通して終点の各フォーラムに流れ込む。それは堰を切って、スピードエネルギーとしてアウトバーンを疾走する。交通網は血脈のようにドイツ中に張り巡らされ、細部まで行き渡った妄想と暴力がドイツ中を支配する。そんなイメージ。これこそ、ヒトラーにとって、ミュンヘン=躍動の首都=Hauptstadt der Bewegungを体現するものであったにちがいない。
計画は、幸い大部分が実現されることはなかった。でも、今だにミュンヘンでは、それが建設されるはずであった敷地が多くの場合、空地として取り残されている。この虚ろな空地を眺めていると、あの人類の悲劇は、まだ僕達にとっては完全に過去のものではないのだという思いが沸々と湧いてきて、空恐ろしくなる。
ちなみに、アレアハイリゲンホフ教会での観劇について。朗読にあわせて楽団が演奏する朗読劇は退屈で、息子達に「ねぇ、いつ終わるの?」と何回も聞かれる始末。自分にもあんまり面白くなかったので返す言葉もない。
劇が終わったあと、闇に包まれた旧宮殿の中庭からオデオンズ広場を横切って地下鉄へ向かう。街灯に照らされ黄金色に浮かび上がった街並みの中で、劇についてたわいのない二三の事柄を長男君と意見を交わす。劇とは全く関係ない自分の興味のある世界について質問をぶつけてくる次男君。こんなふうにして僕達は夕闇をくぐり抜け、また日常へ回帰してゆくのだった。
Posted by 川合 英介
川合 英介
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建築士。静岡県出身。2003年交換留学生として渡独。以来、ミュンヘン在住。ミュンヘン工科大学にて「都市壁撤去後の都市境界形成」について博士論文を執筆、博士号取得。現在、建築士として設計事務所に勤務。住宅、幼稚園、事務所、集合住宅の新築、改修、増築プロジェクトを担当。パティシエの妻、二人の息子とバイエルン生活をドタバタとエンジョイ中。