PANORAMA STORIES
三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎。第4話」 Posted on 2022/01/24 三四郎 天使 パリ
吾輩は犬である。今は正直、生まれ故郷に帰りたい。
さて、ぼくがパリというところに住む日本人の家で生きることになったことは、これまでここに記してきた通り。それは悪くない。
犬の園しか知らなかったぼくにとって、都会は未知の世界であった。
でも、犬の園のご夫妻はとってもいい人だったけれど、40匹からいる犬たち全員(外で15匹、残りは室内で飼育されていた)、面倒みないとならないので、ぼくはその中の一匹にしかすぎず、ぼくのことを構ってくれる人は他にいないし、エルバー(ブリーダー)のシルヴァンは昼間、カルフール・マーケットで働いているので、その間、奥さんのナタリーさんだけで40匹の世話をしないとならず、ぼくのような埋もれがちなちび犬には厳しい世界なのであった。
でも、今は、ぼくのことを四六時中、24時間、常に構ってくれるムッシュとその息子君がいるので、退屈しないで済むし、何より、田舎の犬の園では一番小さな犬種だったから、しかも、生まれたばかりのぼくはそれなりに神経を使わないとならない環境でもあった。
というのも、あそこにはぼくのことをおもちゃみたいに扱う、とにかくいじわるな犬がいた。
ぼくの分のごはんはナタリーが見てない時に横取りされたし、シルヴァンが見てない時によく噛まれたり、壁に押し付けられたり、悪気はなかったのかもしれないけれど、いい憂さ晴らしの道具にさせられていたのは、事実・・・。
ぼくは身体が小さかったから、標的になりやすかった。
とくに夜になると、檻の中で何が起きているのか、あの善良なご夫妻には分からない。
ぼくはいつも、檻の隅っこで、小さくなって生きていたし、それが、ずっと当たり前だと思っていた。
でも、日本人のロン毛のムッシュの家で暮らすようになって、ぼくは確かに、これまでとは全然違う人生を生きることになった。
泥だらけの庭で、大勢の犬たちに交じって、奪い合うようにごはんを食べないとならないあの生活は、百歩譲って、それなりに楽しかったとしても、ここだとぼくは誰に急かされることもなく、泥に塗れることもなく、ぼくはぼくのペースで、ぼくが食べたい時にご飯を食べることが出来たし、ムッシュは一応、
「三四郎、遊ばないで、ちゃんと食べなさい」
とは言ったけど、そのご飯は片付けられることもなく、ずっとそこに置きっぱなしだった。
もちろん、もう泥の中に顔を押さえつけられることもなければ、何にも残っていない自分の皿を舐めなくても済むようになったのだ。
あの日、ぼくが犬の園を後にする時、ぼくをイジメたあの連中が、ぼくを遠くから、たくさんの銀色のお皿を囲んで、無言で見送っていたのが印象的だった。
ぼくはもちろん黙っていたよぼくを迎えに来てくれたムッシュの腕の中から、遠ざかる彼らをただ、じっと、何の感情も持たずに、見つめていた。
ぼくにはどんな人生が待っているのか分からなかったから、実は正直、どういう顔をしていいのか分からなかった。
恨みもないし、まぁ、いい思い出もないけれど・・・。
ぼくを何度も噛んだあのボス犬も、もうぼくに手を出せなくなるのだから、それはある意味、幸いなことだった。
しかし、一人でそこを去るぼくには、同じくらい大きな不安があったことも確かだ。
パリという大都会には、見たこともない巨大な鉄の自動車がびゅんびゅん走り回っていたし、とっても空気が悪かったし、人間はいつも急いでいたし、泥の代わりに、アスファルトやコンクリートが地面を塞いでいた。
でも、少なくとも、ぼくはもうイジメられることはなくなった。どうやら、それは事実のようだ。ぼくはこれまでにない自由を手に入れることができた。
しかし、まだ喜ぶのは早い・・・。
パリがぼくにとってどういう世界か、ぼくはきっとその本質を理解できてないからである。
ただ、その時のぼくには選択の余地などなかった。
ともかく、運命に身を任せて、ぼくは新天地を目指すことになる。
さようなら、犬の館の皆さん、ぼくはパリに行くよ、と心の中で呟きながら、そこを後にすることになる。
今日、ぼくはムッシュに連れられて、エッフェル塔と呼ばれる巨大な鉄の塔の袂で、ぼくと同種の、ミニチュアダックスフンドの雌犬と知り合うことになった。
その子のご両親は若いフランス人で、一方、ぼくの親はロン毛の年齢不詳の日本人であった。
ぼくは、ムッシュよりも早く、その子が前方から歩いてくることに気が付いていた。
そして、ぼくたちは向かい合った。飼い主同士は何か楽しそうにやりとりしていたけれど、ぼくは、それどころではなかった。
目が合ったまま、動かなくなった。パリで、はじめて会ったミニチュアダックスフンドだったからだ。どこから来たのだろう。この子は、今、幸せなのだろうか?
「三四郎」
とムッシュが言った。
どうやら、ぼくのことを若いカップルに説明しているようであった。その二人がぼくを笑顔で見下ろしていた。その子もぼくを見つめていた。
すると、その子がぼくに近づいてきて、ぼくの匂いを嗅ぎはじめたのだった。ぼくも気が付くと、その子の匂いを同じように嗅いでいた。
一瞬、その子は微笑み、それから、ぼくに背中を向けるとスタスタぼくから遠ざかっていった。
また、会えるかな、と思った。
こんな素敵なマドモアゼルがいるんだ、パリには・・・。ここは素晴らしい場所だ、と思ったら、帰り道、ぼくは思わず、芝生の上で、飛び跳ねていたのであった。
ところが、その喜びもつかの間、その夜、大変なことが起きてしまう。
それは、ぼくの幸福が一瞬で氷りつくようなもの凄い出来事であった。
というのも、夕食が終わり、ぼくはカカ(うんち)とピッピ(おしっこ)を済ませて、自分専用のふわふわベッドマットでムッシュがお風呂から戻って来るのを待っていたのだ。
ぼくはぼくに与えられた部屋から出ることが許されなかったのだけど、その部屋をぐるりと囲むように、ムッシュの息子さんの部屋、ムッシュの寝室(この部屋にだけぼくは初日に入ることが許された。ぼくが泣き叫んだので一晩だけ入れて貰えたのだ)、そして、ムッシュの仕事部屋、サロン、食堂があり、おまけに玄関の大きな扉があった。
つまり、ぼくの部屋には、6個のドアが付いていたことになる。
でも、ぼくには他の部屋へ行く権利が与えられていなかった。外の世界(ぼくはそう呼んだ)には、「恐ろしいのがいるんだよ」とムッシュが身振り手振りで説明してくれたのだ。その意味が分かった。
ぼくはムッシュがぼくの部屋から外の世界に出ていく時に、必ずドアを閉める意味がやっと分かった。
そうとは知らないぼくは「一人にしないでよ」と吠え続けたのだけど、それはムッシュの言う通りであった。
今日、ぼくは食堂と呼ばれる世界を徘徊する悪魔を、扉の隙間から、見てしまう。
その悪魔は、もの凄い爆音を張り上げて、しゅるしゅると伸びる奇妙な触手で子犬を食べようと動き回っていたのである。
ぼくは、暗闇の中で、青白い眼光鋭いその悪魔を目撃してしまい、息を潜めることとなった。田舎に帰りたい、とぼくは思った。
今すぐ、大好きな仲間たちがいるあの生まれ故郷に帰りたい、と思ったのである。
つづく。
Posted by 三四郎
三四郎
▷記事一覧2021年9月24日生まれ。ミニチュアダックスフント♂。ど田舎からパリの辻家にやってきた。趣味はボール遊び。車に乗るのがちょっと苦手。