PANORAMA STORIES
花ことば− オキーフが語らなかったフェミニズム Posted on 2017/06/16 砥上 明子 ライター ニューヨーク
ニューメキシコにあるジョージア・オキーフの家を訪れたのは去年の夏の盛りだった。
庭には、色とりどりの野菜が宝石のように輝いていたし、窓辺に並べられた石たちには、命が宿っているようだった。辺りは、洗いざらしのデニムを履いたオキーフが今さっきまで水を撒いていたかのように、濡れた土の香りが濃厚に立ちこめていた。
大写しの花や広大な自然風景画をテーマに、抽象画家として独自の道を開拓したオキーフは、モダニズム芸術のアイコン的存在として今日のアメリカでも絶大な人気を誇る。
現在ブルックリン・ミュージアムで開催されている回顧展は、彼女自身の作品よりも、生涯をかけてオキーフが確立させていった「スタイル」に焦点を絞ったものだ。彼女の生活を縁取っていたモノたちや、写真家がレンズを通して捉えた彼女の姿が、立体感を持って鑑賞者に迫る。
男性作家が主流だった当時のアートシーンに切りこみ、女性アーティストの草分け的存在となったオキーフだったが、本人は「女性芸術家」ではなくただ「芸術家」でありたいと、フェミニズム運動への参加を一切拒否していたという。
そんな彼女の回顧展が「YESの年:フェミニズムを再考する」(原題“A Year of Yes: Reimagining Feminism at the Brooklyn Museum”)と題した年間テーマの一環として取り扱われるのは、少し皮肉なことかもしれない。
実際に今回の展示については、服飾やトレンドに強くフォーカスした、物質主義に基づいた性差別だと厳しく批判する声もあった。
同ミュージアムの永久展示作品には、オキーフとは対照的にフェミニズムを声高に訴えたジュディ・シカゴの「ディナー・パーティー」がある。
三角形に設置されたテーブルの上には、時代を開拓、象徴した39の女性の名前と共に晩餐会用の大皿が並べられている。その大皿には、それぞれの女性の職業や個性を基調デザインとした女性器のモチーフが刻まれている。
小説家バーニア・ウルフや詩人エミリー・ディキンソンなどと並ぶオキーフの皿にはもちろんと言うべきか、紫色の立体的な花が施されており、ひときわ存在感を放つ。
自身が監修した、女性芸術家の苦悩をテーマにした本への引用をオキーフに断られたとき、失意のシカゴは次のようなコメントを出している。
「ミス・オキーフ、才能溢れるあなたは、確かに女性アーティストとして苦悩することなどなかったのかもしれません。しかし、私を含めたくさんの女性アーティストはこのジェンダーにもがき苦しんでいます。あなたには、私たちの味方でいていただきたいのです。どうか敵にはならないで……。」
しかし、結局のところオキーフが年齢、性別を問わず多くの人に愛される理由は、彼女が自分のジェンダーを深く認め、受け止め、たぶん結構苦しみながらも、それに依りかからず、より広い場所で自分であり続けようという矢を貫いたからではないかと思う。
オキーフやシカゴが対峙した当時のアメリカのフェミニズムから、トランプ政権の元で今日再び多く語られるフェミニズムの間に、成長はあったのかと考える。
この半世紀の間、アメリカが醸成したフェミニズムとは、女性が自分のアイデンティティや職業を語るとき「女」という形容詞を使わず、より自由に自分を表現することが自然となったことーまさにオキーフが願ったように「ただ自分でいる」権利を得たことだったのではないか。
トランプによる一連の問題発言は、その土壌を脅かすものだった。大統領就任式の翌日、実に47万人もの女性がアメリカ全土からワシントンDCに集結し、自分たちの権利について声をあげた。
私たちは、ただ自分でありたいのだと。
おばあさんになったオキーフは、黒のスーツに身を包み、髪を後ろで束ね、男性のようにも見える。
笑っている写真は、もともとあまりない。
けれど、優雅にかざしたスイスチーズの穴からこちらを覗く瞳は、お茶目な女の子のような、いたずら好きな男の子のような光を湛えている。
秘密のメッセージを伝えるように。それでいいよ、とこっそり語りかけるように。
Posted by 砥上 明子
砥上 明子
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ライター。在米もうすぐ10年。ブルックリンに暮らす。アメリカンな息子を育てながらアートシーンに神出鬼没する。