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ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」 Posted on 2016/11/09 辻 仁成 作家 パリ

正直、ホテルを予約するとき、欧州のほかの都市にくらべ、情報が少ないことがまず不安だった。
いわゆるアメリカ資本のホテルではなく、モスクワの歴史とともに歩んだホテルに泊まりたい、という趣旨に一番近いホテルを探しだすことになる。

メトロポールという名前が実に心地よく目に飛び込んで来た。赤の広場まで五分。フォーシーズンズはさらに近い場所にあったが、老舗ロシアのホテルを選ぶことになる。

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

建物の外観やエントランスは地味で残念だったけれど、中はとっても面白かった。
何もかもがソ連時代を彷彿とさせるほど無意味に広い。客室の廊下はまるでクレムリン宮殿の廊下並みで、寂しいほどに広かった。
絨毯の色や壁紙はパステルカラー調で、欧州ではお目にかかれないエキゾチックなデザインと言える。

モスクワまで来て、アメリカ系のホテルには泊まりたくない。遠方まで旅に来たのだから、思う存分ロシアの雰囲気を味わいたい。

その目的に叶うホテルではあった。

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

ここでもっとも私を驚かせたのは朝食であった。どうやらこのホテルの最大の売りなのであろう。

朝食会場もまた異常にばかでかい。しかもゴージャスときている。朝からステージの上でハープ奏者が演奏をする。普段はコンサートホールとしても機能しているのかもしれない。

驚くべきことに天井はガラス張りのクープラである。空が見える。奥まった場所にある小ホールにずらりと料理が並べられてある。日本のホテルなんかでも主婦層を狙ってバイキング格安ランチなどをやっているが、ここのはケタ外れに品数が揃っている。
キャビアまであるし、スパークリングワインが10本ほど冷やされてあった。
写真を撮ろうと思うのだけど、どうやってもフレームに収まらない。

「パパ、ロシア人は朝からこんなに食べるの?」と息子が訝った。
 

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

レセプションの担当はアレクサンドラという若い女性でこの人が最後まで心を尽くしてくれた。
その場限りの笑顔など作らない独特のホスピタリティ、愛想はいまいちなのだが、頼んだことは必ずやり遂げる。
生粋のロシア人というものにはじめて触れた瞬間でもあった。

アレクサンドラに限らず、コンシェルジュやレストランの給仕に至るまで、洗練はないのだけれど、飾らない優しさがにじみ出ていた。はにかむようにみんな微笑み、いい距離の取り方をする。
日本や欧米のホテルマンとは違う、その素朴さ、ある意味不器用さがモスクワらしさを醸し出している。

けれども、英語が今一つ通じないのがちょっと難点。ドアマンに赤の広場までの道順を訊くのが一苦労であった。

そういうホテルもモスクワならでは、と言えるのかもしれない。

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

バーは廊下の左右にあり、決して立派とはいえなかった。
どこか古い駅の待合室を思わせる佇まいで、若い給仕たちがいそいそと働いていた。
でも、私はここが一番のお気に入りとなった。
ここで舐めたウォッカは今まで飲んだものとは比較にならないほどに美味しかった。

息子は私の横にぴたりと張り付き離れない。
我々親子は世界中どこのホテルにいっても、夕食後必ずバーで父親はアルコールを、その隣で息子はゲームに興じることを楽しんだ。

「いかがですか? ロシアのウォッカは?」
「最高だよ。とっても幸せだよ」
「ありがとうございます。それが私たちロシア人の誇りなんです」

若い給仕さんは張り切ってもう一杯もってきてれた。旅の疲れが癒される。

エレベーターホールに出るとギャラリーがあり、ここに泊まった有名人の写真がずらりと並んでた。
世界各国の歴代大統領に混ざってマイケルジャクソンの写真があった。

「パパ、マイケル怖い」息子が眉を潜めて言った。
「そんなこというなよ。夢に出そうじゃないか」私は息子の肩を抱き寄せた。
「このだだっ広い廊下をマイケルジャクソンは踊りながら歩いたのかもね」息子が言った。

私は想像し思わず吹き出してしまう。モスクワでマイケルの音楽を聴きたくなった。

ホテルストーリーズ 「メトロポール モスクワ」

Photography by Hitonari Tsuji