JINSEI STORIES
人生は後始末「初の台上がり」 Posted on 2018/07/22 辻 仁成 作家 パリ
中洲を舞台にした小説「真夜中の子供」の執筆に際し、山笠に関する記述に間違いがないか、博多祇園山笠振興会の広報部長平井さんのご指導をあおいだ。それがご縁で、7月13日に行われる集団山見せで台上がりを務めてもらえないか、というご依頼を受けてしまった。
台上がりとは読んで字のごとく、山の上に上がり、てっぽうと呼ばれる赤い指揮棒を振り回しながら山を先導する役目で、普通は経験を積んだ者が務める。けれども集団山見せだけは各界の偉い方々や著名人が上がって、パレードみたいに大通りを練り歩き福岡市役所を目指す。
私は小説がご縁で中洲流の台上がりに推薦されてしまったのである。山笠の台上がりは博多もんにとっては大変栄誉なことだそうで、福岡の知り合いからたくさんの祝電やお祝いをいただくことになる。
山笠は博多側で行われる神事だが、集団山見せだけは博多を出て福岡側へと山が動く。沿道には10万人を超える人々が並び、手を振る。一番山には高島市長が上がり、小生は七番山、中洲流の山に上がることになった。
実はこの年齢で締め込み(ふんどしのこと)を締めて台上がりを務めることが恥ずかしく、当日まで気が重くてしょうがなかった。前日、櫛田神社で山笠振興会会長の豊田さんと面会をした。
「その長髪、出来ることなら明日までにどうにかなりますか? 台上がりを務める者は下の者への見本とならなければなりません。しっかりと務めてもらいたい」と激励され、さらに気が重くなった。
音楽活動もあり髪をいきなり切ることは難しいので、美容師の友人に相談をしアメリカンピンを大量に使用して短く束ねてもらった。鉢巻をすればなんとか様になった。
当日、櫛田神社の大広間にて台上がりをやる人々の着替えが行われた。若い衆が手伝い山笠の正装へと着替える。脱いだ服を付き添った者に渡す。携帯もお金も何も持ってはならない。足のサイズを測り、地下足袋と脚絆が渡された。中洲流の若い衆がやってきて着替えを手伝ってくれた。地下足袋を脚絆を履き、次に締め込みを締めた。パンツを脱ぐのだが、さすがに直につけることに抵抗もあり男性用のTバックをドン・キホーテで買い持参した。ようは締め込みから大切なものがはみ出さなければいいということであった。
生まれてはじめての締め込み。平井さんもやってきて、二人がかかりで締め込んでもらう。途中で緩んで事故がおきないよう、締め込みの先端を二人掛かりで力づくで引っ張り上げられた。これがちょっと痛い。トイレはどうするのですか、と平井さんに訊ねると、横からひょいと出して用を足すのですが、仕舞う時がちょっと痛いよ、と冗談っぽく言う。私は笑えなかった。腹巻きと呼ばれるさらしをぐるぐると腹部に巻き付けられる。これも結構な圧力を感じた。水法被を羽織り、頭にてのごい(鉢巻き)をし、締め込みに舁き縄と呼ばれる荒縄を刀のように差して完成となる。
台上がりを務める一行は神社の本殿へと向かい、そこでお祓いの儀式が行われる。背筋の伸びる瞬間である。この時、やっと覚悟が出来た。これは九州にゆかりのある人間にとっては大変に栄誉なのだ、じたばたしてはいけない、きちんと役目を果たさなければならない。神社の境内で記念撮影を行い、それから出発地点であるビルの会議室まで移動、そこで酒がふるまわれ、小一時間の宴会となった。市長をはじめ福岡の企業の社長さんや国会議員さんなど福岡の名士が勢ぞろいである。
いよいよ時間が来たので階下へ降りることとなる。建物の外、大博通りにはすでに大勢の人だかり、一番山から順番に七番山まで並んでいる。若い衆の力を借りて台に上がる瞬間は心が引き締まった。練習はしてないのでいきなりの本番。舁き手の若い衆が集まって来て山を囲んだ。締め込み水法被角刈り頭に鉢巻きの威勢のいい連中である。彼らが近づいてきて一緒に記念撮影をした。和やかなムードだが、台の上は相当緊張する場所である。落っこちないように足を開き、舁き棒の上で踏ん張った。山はスタート地点の明治通り呉服町交差点まで少しずつ移動しはじめる。離陸を待つ旅客機のように滑走路を少しずつ移動するのだが、山が浮く瞬間に最初の感動が押し寄せてくる。号令のもと若い衆が舁き棒を持ち上げる。その時、若い衆が「いやああ」と掛け声を一斉にあげる。この辺のところは拙著「真夜中の子供」に詳しく記した通りであった。先に小説を書いたが、目の前で経験していることは小説を見事になぞっている。自分で書いておきながら、その通りのことが繰り広げられているせいもあり、大きな感動を覚えた。同時に、そこに間違いがないのかも心配であった。でも、それは杞憂に終わる。自分が小説家として台上がりの大役に選ばれた理由が分かった。平井さんたち振興会の方々は空想の中だけではなく現実を体験させたかったのであろう。平井さんが言った。
「経験していない山笠をよくここまで丁寧に書き込んでくださった。これにはちょっと驚いたのです」
すると一人の若い衆がいきなり「愛をください」と大声で歌い出した。今まさに山がスタートをするその直前の緊張のさ中である。大合唱となった。仕方がないので小生も一緒に歌った。はじめて会った連中だったが、なんと気持ちのいい男たちであろう。中洲の若い衆たちの優しさが伝わり、さらに感動を覚えた。
次々に山がスタートをしていく。呉服町交差点から天神(福岡市役所)間の約1.3kmが観光客と市民で埋め尽くされている。その景色は台上がりを経験した者にしかわからない壮観な眺めであった。カウントダウンが始まり、いやあああ、と一同から号令がかかると同時に山が持ち上がり、走り出す。腹の底から声を張り上げ、赤いてっぽうを振り回した。見様見真似である。横に座られた中洲流総務の比山さんのやり方を真似した。おいっさ、おいっさ、という掛け声も小説のままだ。次々に入れ替わっていく舁き手の様子も小説通り。
当然のことだか迫力が全然違う。実際に見えている世界のリアリティは圧倒的であった。頭でわかっていたことを身体と魂が知っていく瞬間、私は天と繋がった。この経験は生涯で1、2を争うほどに素晴らしいものであった。足を開いて踏ん張り、おいっさ、おいっさと力の限り声を張り上げた。あの一緒に歌った男たちの顔が歪んで、肉体がバネになり、山を持ち上げている。もはや一人の人間というよりも全体で一匹の竜のような存在である。七つの竜が博多から福岡へと駆け抜けていく。博多を出ない山笠の中で、この日だけ唯一福岡へと山が動くことの意味を改めて噛み締めた。沿道を埋める福岡市民の活気こそ、この都市のエネルギーなのである。山笠がはじまってから777年という節目の年の、しかも七番山の台上がりを私は務めさせていただいたのである。大変、光栄なことであった。
すべてがラッキーセブン、博多と福岡の未来に幸あれ!
このコースで一番の難所は西大橋の登坂である。ここで山は失速し、舁き手たちの顔が真っ赤になる。山は左右に方向性を失うが全員で死力を出し切り、登りきる時の気迫といったら言葉では言い表せない。この西大橋には各テレビ局のカメラも並び、最大の撮影ポイントであることがうかがえる。中洲流の七番山もここを無事に登り切り勢いがついた。小生の声はもうカラカラだが、赤いてっぽうを振り回し続けた。そして、ついに桟敷席がある福岡市庁舎の前に到達したのである。山笠振興会の方々、来賓の方々に向かって山が正座するように体制を整える瞬間もまた大きな見せ場の一つであった。
まっすぐに対峙するため最後の余力を出し切り、山が絶妙に真正面を向いて着した直後、手一本となった。博多手一本とよばれ、物事のけじめをつける時にやる。一般的な一本締めではなく、博多は独特の言い回しで複数回拍手する。後日、異議はないという意味であり、ここでお開きとなる。さらに背筋が伸びた瞬間。そして私の大役もここでおわりとなった。
今日の後始末。
「後日、異議をださないことが、まさに今を生き切るという博多流なのである」