JINSEI STORIES
滞仏日記「セーヌ川にて、1991年の風」 Posted on 2019/01/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、昨夜のノートルダム大聖堂の前でギターを弾いていた男の残像が頭から離れなかった。息子を学校に送り出した後、セーヌ川の河畔に発声練習をしに出掛ける。僕のアパルトマンが入る建物は百年以上前に建てられた。壁は石造りだから厚いのだが、天井が薄く、上の住人が歩く度、足音が響いてしょうがない。大きな声で歌うので、上下の住人に迷惑をかけてしまう。下が産婦人科のクリニックだった時があって、お医者さんに紳士的に怒鳴り込まれたこともあった。「ムッシュ、あなたの歌は素敵なんですけど、妊娠してるお母さんたちにはちょっと刺激が強すぎるので、セーヌ川とかで歌ったらどうでしょう」と。それから発声練習はセーヌの橋の下と決めている。川幅は150メートルほどあるので、対岸に届ける気迫で声を絞り出す。なんとも清々しい。特にこの冬の時期は人も少ないので思い切り歌うことが出来る。時々、バトームッシュ(遊覧船)のお客さんたちが手を振ってくれる。健康や若さを維持するのにこの発声練習ほど役立つことはない。しかも青空の下、広々としたセーヌの流れを見つめながら歌うのだから、身体にも魂にも心にもいいに決まっている。
南青山マンダラのライブまでにあと25日となった。ライブは日本に帰るたび定期的に続けてきた。あとどのくらい歌えるかわからないけれど、僕にとって歌うことは最初の職業であり、音楽は表現手段として必要不可欠なものだ。文章であろうと、美しい映像であろうと、やはり生の歌には敵わない。ライブ会場でお客さんと向き合う時の高揚感とか一体感は生きてる限りやめられるものじゃない。今度のライブで歌う予定の「シルビア」という曲は僕が20代の頃に在籍していたロックバンド「Echoes」にとって最後のレコーディング曲でもあった。「大切なのは歌い続けることだよ。あの日のメロディ、一人になっても」という一行こそが、当時自分が残したかったメッセージである。それは表現者としての僕のポリシーとなった。人から批判されても、罵倒されても、続けなければ意味がない。もし今が戦時下の独裁政権下で表現の自由が制限されていたら、歌うのをやめるだろうか? 書くことをやめるだろうか? いいや、僕は地下に籠ってでも、蝋燭のあかりを頼りに物語を紡ぐだろう。隊列に並ばされたとしてもハミングで口ずさみ続ける。周りの人たちがみんな離れていってたった一人になったとしても歌い続ける、書き続ける、表現し続けるとずっと信じてきた。何も歌うことがないつまらない時代であっても、自分は創作を続ける。お金のためじゃない。あの日、僕は自分のためにあの曲を作った。それが不思議なことに年明けにセーヌ川で発声練習をしていたら、このメロディが不意に僕の口から溢れ出てきた。覚えている人はもはやあまりいないかもしれない。1991年に発売された二枚目のベスト盤に収録された唯一の新曲だったし、その時はバンドの解散の前後で、だからか時代の中に埋没した。でも、僕は個人的にその歌にこのバンドの最後のメッセージを託した。たぶん、作曲したのは30歳の時。今日、その歌を河畔で歌っていたら、通りかかった女性が立ち止まって、僕を振り返った。アジア人だった。ボブカットの小柄な人で、ずっと僕の前から動かなくなった。そして、いい歌ですね、と英語で言った。サビのフレーズの冒頭が、don’t stop music、と英語で繰り返される。あなたはもしかしてシルビアですか、と訊いたら彼女は苦笑しながら、nonとかぶりを振った。そして、でも、音楽を続けてください、と言い残して去って行った。こんなこともあるのだ、と思った。それは何より、僕を励ます一言でもあった。あの日、会場を埋めた大勢の若い人たちの中の一人、だったのかもしれない、と僕は妄想して、口元を緩めるのだった。
セーヌが流れ続けるように、人生というものは流れ去る。僕は今年60歳になる。でも、音楽はあの時止まったままなのだ。そのメロディは当時のまま残り続けている。少なくともあの曲を作った僕の心の中に。とっても素晴らしいことじゃないだろうか。シルビアという曲は僕が未来へ託した歌なのである。
Don’t stop music いつでも僕ら、歌うこと、取り戻せる
Don’t stop music あの日のメロディ、忘れないこと