JINSEI STORIES
滞仏日記「ノートルダム大聖堂にて」 Posted on 2019/01/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、僕はその時、たった一人、ノートルダム大聖堂と向かい合っていた。聖母マリアを意味するこの大聖堂のファサードには聖母マリアが一生を終えようとする瞬間が描かれている。はじめて渡仏した20代半ば、僕は真っ先にここを訪れ同じマリアを眺めた。昨日は遅い時間だったので誰もいなかった。世界遺産なので暖かい日には観光客で溢れかえる。でも、こういう冬の寒い日の深夜だと人の気配はない。けれどもその建築物はまるで命を持っているかのように僕の眼前に厳かに屹立していた。誰もいないと思っていたがどこからかギターの音が聞こえてきたので足を向けると大聖堂のたもとに男がしゃがみ込んでいた。凍えるような寒空の下、奏でる神秘的なギターの旋律に耳と心を奪われた。僕は信仰というものがないので、手を合わせることもなければ、もちろん、十字を切ることもしない。ただ、じっと見つめている。
なぜか小さな頃から、物心ついた時から、ずっと死について考えを巡らせてきた。死んだらどうなるのだろう、と想像してきた。死が分からないから怖かったし、だからこそ興味があった。自分の存在がなくなるということが頭で理解出来なかった。もちろん、今も出来ない。でも、毎日、死について考え続けてきたおかげで、だんだん、なんというのか、死というものよりも、今この瞬間に死とは何かと考えていることの方が重要に思えるようになった。死生観というけれど、人間は誰もが必ず死と直面するわけで、だからこそ死生観を持つことは死の恐怖から抜け出る方法の一つであり、しかも生き方を生む。いかなる人も生きている間は死を目撃できないので、ひたする想像をするしかない。長い年月の中で死と折り合いをつけていくというのか、和解していく。死は最大の謎だが、宇宙の果てを誰も見ることが出来ないように、それは謎だからこそ僕らを生かし続ける道標にもなってもいる。
僕は死を思い出そうとしている。死を忘れようとして日々を誰もが生きているので、時々、身近な人の死に直面すると狼狽える。生きることと死ぬことは常に表裏一体というか実は本来、表裏もなく一体なのじゃないか。死にたいと思うことは生きたいへの切望であり、生きたいと思うことは真後ろに追いかけてくる死があるからだ。お金をばらまくくらいのお金持ちがいるとして、よく考えてみればその人はその資産を全て次の世界、仮にそういうものがあるとしたらだが、天国にも地獄にも何一つ持っていくことは出来ない。死は平等だということであり、生きるということは不平等だということでもある。
「永遠者」という小説は永遠の命を持った人間を主人公に書いた。仮に人間が永遠の命を持ったらどうなのだろうと思いつき、自分の想像力を働かせて何世紀も生きる人間を描いてみた。古代の王様は永遠の命を求めた。人間は裕福になれば永遠の命とか宇宙とか果てしない世界を求める傾向にある。書きながら思ったのは、死ねないでいる人間の孤独、についてであった。現在の平均寿命はこの時代にちょうどいいサイズだと思いついた。二百年も生きたら、記憶を辿るのが辛くなる。出会いと別れが新鮮なうちに一生を全うすることが人間らしいのかもしれない、と書き終えた時に思った。それは切に生きること、今日を精一杯生きることの意味を僕に連れてきた。無常の中にある常である。
だから、死にたくなる時、僕はこう考えることにしている。それは同時に、切に生きたいということじゃないか、と。死にたくなるのは、生きることに絶望したからであり、つまり、死を思い出したということなのだ。それは悪いことじゃない。死が立ち上がれば、同時に、生も立ち上がる。寒空にも虹が出る。「冬の虹」という曲は絶望した日に書いた。でも、それを歌う時、僕の中に溢れているのは生のエネルギーだったりする。大聖堂のたもとの男が僕に「たばこを持ってるか」と訊いてきた。僕は「吸わない」と返すと、彼は「それがいい」と言って笑った。僕たちは少し言葉を交わした。聞いちゃいけないことは聞かなかったけれど、彼が口にしたことは、幸福というものは測ることのできないものだ、というようなことであった。地べたは寒いだろうと思った。ところが彼は一日中そこにいる。この人は再びギターを弾き始めた。奏でられたギターによって僕の疑問は遮られた。