JINSEI STORIES
第六感旅日記「遠ざかる人、近づく人」 Posted on 2022/07/11 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、人は近づく時には美味しいことを並べたて笑顔でにじり寄ってくる。
しかし、離れる時には音もたてずいつの間にか忍者のように消え去っている。
残念なことだが、ほぼこれが世の常だったりする。
別に去ることが悪いことではない。
人間には理由があるので、去らなければならない事情は理解できる。
問題にしたいのは近づき方と去り方のギャップである。
これは本当に長い人生においてのいい教訓となってきた。
笑顔でにじり寄ってくる人たちの嘘をきちんと見抜くことが人生をしくじらない上での教訓となる。
すくなくとも自分はそういう登場や退出が好きじゃない。
「立つ鳥跡を濁さず」を出来ない相手の素性を最初に見抜くためにはかなりの洞察力と経験が必要かもしれない。
ここで注意しなければならないのは、最初から全てを疑ってかかるわけにはいかない点であろう。
人を信用するのがどれほど難しいのかをこの教訓は物語っている。
不思議なことではあるが、陸地と海との境目、たとえばこのような荒れ狂う岬に立つといつもこのようなことを考えてしまう。
今日は、そこから旅の話をしたい。
人の去り方について考察しながら、欧州最西端の岬から、思念の海を眺めてみよう。
欧州最西端のロカ岬に立つと、16世紀の日本(種子島)にポルトガル人が火縄銃を伝来させたという歴史の教科書で習ったことを思い出す。
1543年、種子島に漂着した船に明の儒者が乗っており、筆談の末、乗船していた外国人二名はポルトガル人商人と判明した。当時の領主が彼らから火縄銃を二丁買ったのが、どうやら史実の上での鉄砲伝来ということになる。この火縄銃は解体され複製され、日本国内へと広がった。
面白いのは僕の母方の祖先が立花藩専任の刀鍛冶であった。
戦争時代には鉄砲の製造を開始し、第二次世界大戦で幅広く使われた今村五連式銃の製造元となった。
特許は軍に取られたが、戦後は今村製鉄所となり農耕機や海苔の乾燥機などを開発している。祖父、今村豊は戦争時代、鉄砲屋豊と言われた。
大量生産には至らなかったもののマシンガンの開発も行っていた。
その辺のことを「白仏」で小説化した。種子島の鉄砲伝来から五連式銃開発までの一族の歴史的流れに僕は関心がある。
ロカ岬に打ち寄せる白波を見つめる時、遠く九州の海を思い出さずにはおれない。
つまり私の一族はずっと武器を開発してきたことになる。
立花藩時代の刀は朝鮮出兵時に主に使われた。韓国の新聞で連載が決まり韓国に招かれたことがあった。大勢の人の前で「ずいぶん前のことなのですが、中世の時代、僕の一族はあなた方の国に攻め入った日本のサムライの日本刀を作っていました。その末裔の人間が韓国で連載をしてもいいのでしょうか?」と自己紹介をしたら、皆さん笑ってくださった。
まとめ役の人に「あなたは勇気がある」と言われた。
でも、隠したくなかったので、正直にお伝えし、彼らは私の作品のファンになってくれた。
その「白仏」は驚くべきことで韓国でも翻訳された。
祖父は戦争の末期に浄土真宗東本願寺派の仏門に帰依している。そして五千柱の骨を掘りおこし砕きセメントと混ぜ合わせて一体の白い座像を建立する。小説「白仏」に譲るけれど、なぜだろう、ポルトガルに立つ時、一族の中で受け継がれてきた長い歴史的陰影の最初の明滅を想像せずにおれなくもなる。
ぼくが霊感が強く生まれたのも、このような仏の影響があるのかもしれない。
ぼくは生まれてからずっと人間の生き死にについて考察を繰り返してきた。
西洋最西端のロカ岬辺りの海は物凄く強い波が打ち寄せている。ポルトガル人たちはここから東洋を目指したのだ。
ハワイのホノルルのような穏やかな海ではない。端から拒絶する、高い波に逆らっての出奔であったはずだ。そこにはビジネスだけではなく信仰の使命もあったのに違いない。
自分には特定の信仰がないからわからないが、波が高ければ高いほど信仰を持つ人間は使命感に燃えるのであろうか。岬に立つとき、人はその先に広がる水平線へと思いを巡らす。
それでも、人間は荒れ狂う海の中へと船出する生き物なのだ。そして白波はまさに遠ざかる人と近づく人を現している。
欧州最西端の岬にて、僕は人間の業のことを考える。
善い業も悪い業も人間はそこから生み出される運命を避けることが出来ない。満面の笑顔で近づいてくる人間を僕は警戒する。黙って去っていく人間を僕はなるべく早く消去するよう心掛けている。
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