JINSEI STORIES
退屈日記「人生に疲れたぼくの電柱作戦」 Posted on 2020/11/19 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、僕は時々、人生に疲れて動けなくなることがある。
前兆とかがなく、しかも、定期的に突然襲われるものだから始末に負えない。
電源が落ちたような状態になり、動けなくなるのだ。何かつかみどころのない不安とか疲れとか絶望に見舞われるのである。
家事とか子育てとかは待ったなし。
シングルファザーになって7年目に入ったが、最初の頃はやるしかなかった。
自分がやらなければ息子の人生が終わってしまう。
そういう火事場のクソ力で頑張ってこれたが、小学生だった子が大学生を目指すところまで育てあげた安堵もあるのだろう、今頃になって反動が出てきた。
或いは年齢的な問題もあるのかもしれない。
離婚後、胃がずっと重く、痛いわけじゃないのだけど、すっきりしない状態が続いている。
家事をやりながら、たとえば不意に包丁が止まって動かせなくなる時がある。
掃除をしている時に掃除機だけが回り続けて電源の切れたロボットのようになってしまうこともある。
幸せが不足しているのだ、と気づいた。
ビタミンや鉄分不足のようなものであろう。
もちろん、子供といることでの幸せはたくさんあるけど、幸せというものは一緒にそれを喜べあえる存在が必要なのかもしれない。
「今、幸せだよね」というものを誰かと分かち合える時に、はじめて幸せというあいまいな雰囲気はよりはっきりとした幸せへと上場する。
頑張ってるね、と誰かに言われることが人間にはとっても重要なのだということ。
いいよ、いいよ、と許してくれる人がいくつになっても大事なのである。
子育てや家事が嫌なのじゃない。
それは自分しかできないことだから、親としてやるが、僕という人間だって生きているので、その僕のことは誰が面倒を見てくれるのだろう、と考えない日はない。
同じような心の空洞を抱えて生きている人が世界中にいるのだ、だから負けるな、と考えることが今の自分の慰みや励みにもなっている。
これを無意識の同時代的連帯感と呼んでいる。
そんな時は、無理せず寝込むのが一番だ。
ひたすら寝込んでいると、ちょっとずつ気力が戻ってくる。
そして、腹が減る。
腹が減ったら、キッチンに行く。
とりあえず、人間はキッチンに行く。
お腹が空いてなくても、冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫のドアはずっとぼくの心を慰める運気の入り口だった。
無意識に冷蔵庫のドアをあけて、それを閉めた。
この無意識の行動は人間を楽にさせているのだ。
冷蔵庫よ、ありがとう。
やっぱり、キッチンは裏切らない。
大好きな料理をすることでこの動かなくなった心と体をもう一度再起動させることも出来る。
料理を作っている時は無になることが出来る。
料理というものは空腹を満たすための行為ではない。
毎日を乗り切るための心の体操のようなものだ。
ぼくは力が出ない時、自分に命じる言葉がある。
「電柱作戦で行け」
次の電柱までとにかく歩いてみよう、と思うことは大事で、次の電柱までたどり着いたら、その次へ、という風に進む方法もある。
そういう人生の前進の仕方を「電柱作戦」と呼んでいる。
電柱作戦のいいところは、とりあえず進む力を与えてもらえるから、ちょっと先にある目標が設定されるので、よけいなことは一旦忘れてそこへ進むことが出来るのだ。
しかも、そこへ向かう仮の気力が人生を繋ぐ。
大きな目標よりも、人生に疲れた時には「次の電柱まで歩いてみよう」という小さな気力に救われることもあるのだ。
とにかく、米を研ぎ、とにかく、おかずを拵える。
冷蔵庫と相談をし、今できる自分のベストをやってみる。
料理にはささやかな達成感がある。
それを食べてもらえて「美味しい」と言ってもらえる時に、ぼくの中のもう一人のぼくが動き出す。
電気が流れて、動かなくなっていたロボットの僕がふっと顔を持ち上げるのだ。
その時に、目に光りが宿ったりする。ぼくはそれを気力と呼んでいる。
もうすぐ、息子が学校から昼食を食べに帰ってくる。
電柱作戦で行け!
ぼくはベッドから、立ち上がる。