JINSEI STORIES
滞仏日記「フランスの大学で僕が学生たちに語ったこと」 Posted on 2019/03/27 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日、僕はイナルコ大学で講義をした。イナルコは日本でいえば「東京外国語大学」にあたる。面白いのは生徒数3000人のうち1000人が日本語を学ぶ学生だということ。これは驚くべき数字であり、日本語が英語やスペイン語、中国語よりも人気があるということに、まず、びっくりした。しかも残りの2000人の生徒が学ぶ言語は約120か国の言語に及ぶというのだから、どれだけ日本語への関心が高いのかがうかがえる。指導教授のアンヌ先生曰く、漫画の影響が大きいのだそうで、フランスにおける若い世代への漫画の影響力の大きさを改めて思い知らされた。ちなみにアンヌ先生の子供たちに向ける教育心の深さと愛情に僕は感動を覚えた。決して生徒を悪く言わない。生徒たちに誇りを持っている。当たり前のことだけど、その熱意を失っている教育者が多いのも事実なので・・・。
僕が今日話をしたのは三年生の学生たちで、だいたいの子が流暢ではないけれど日本語をよく理解出来ている。(日本語で僕の作品について感想文を書いてきた子もいた)他の大学などでも毎年一度はこういう講義をやる。比較するなら、イナルコの学生たちはとっても大人しかった。(第七大学の子たちも大人しかった)僕は彼らに「小説とは何か」という話をした。いつも何を喋るか決めないで行き、だいたい学生たちの目を見てから話すことにしている。まじめな生徒たちの真剣なまなざしを受けた時に、作家が思う小説について語るべきだろう、と思った。小野小町、紫式部あたりからはじまる日本の文学の歴史的変遷、たとえば1400年もの間一つの言語、一つの国の中で文学が脈々と続いている国が他にあまりないことなど、ちょっと硬い話からはじまり、フランス文学との比較なども交え語ったが、ほとんどは小説というものを僕がどう思っているのかという話に終始した。自分でもはじめて話す内容で、学生たちに力説しながら、こんなこと自分考えているんだ、と苦笑が起きた。こういう機会がなければ自分の仕事の意味を分析することもなかったかもしれない。
小説というのは小さい説と書くけど、「説」はフランス語でエピソードとかセオリーなどと訳すことが出来る。決して大説でないところが小説らしい。世界中旅していていつも思うのは、文学を必要としない国がほとんどだということだ。先進国の特別な国以外を旅していると、文学的光景に出会うことがあまりないし、そういう会話が出来る人もほんとうに少ない。文学は農業や医学のように人間にすぐに必要なものではないということに気づかされる。たぶん、この世界の一部を除けば文学が重要だと思っている人は少ない。それほどに特別なことなのだと旅先で何度も思い知らされた。そもそも字が読めない人もまだまだ大勢いるのだから。けれども、だからこそ、一部の人たちにしか理解してもらえないような文学という世界は若者の心をとらえる漫画とは違ったものであり、人間がなぜ存在するのかという根本の謎へ迫る一つの方法であることは間違いない。文学的な思索を通して私たちは、人間味深い洞察を通して私たちは、人間を知る、知ろうとする。人間の意味を解明するための大いなる宇宙が実は見ようと思う人たちの眼前には広がっている。それは「小説」と謙遜しながらも、大説に値する哲学なのだと僕は思う。自分はこれがたとえ仕事にならなくても毎日書き続けるだろうということを知っている。ヒット作を生むことが自分にはある時から意味をなくし、自分のためにこそ作品を好んで書くようになった。この日記もそういう類のものかもしれない。それが許されるのが文学というジャンルなのだと思っている。こういうことを理解したいと思う人にだけ届けられるものだから、小説、ということでいいのだ。この世界のほとんどの人たちには関係ないことだけど、そこに人間がいることを一番はっきりと伝えられる方法ということができる。・・・というような持論を学生たちに伝えた。言いたいはもっとあったけれど90分の授業では物足りなかったかな。生徒たちの質問がとっても本質的で、とても豊かであったことが嬉しかった。人間は肌の色も民族も宗教も様々だけど、こうやって世代を超えて理解し合える人がいることは大事にしなきゃ、と思った。