JINSEI STORIES
滞仏日記「哲学者アドリアンが描く、恐ろしいシナリオ」 Posted on 2020/05/30 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくがたまに顔を出すバーの共同経営者のリコはモロッコ人だ。散歩していたら、リコに呼び止められた。なんか、目を赤くしている。
「ツジー。アメリカのミネアポリスで暴動だそうだ。知ってるか?」
今日はフランスのどのチャンネルもその話題一色だった。アメリカ中西部ミネソタ州ミネアポリス市で白人警官に首を押さえつけられ無抵抗の黒人男性が助けを求めながら死亡した事件、ショッキングな動画が世界中に出回り、それを受けて、今日は数千人規模の大暴動が起きている。ウオルツ州知事は非常事態宣言を発令、州兵が沈静化にあたっている。
「知ってるよ。動画、ツイッターで見たよ。アメリカはいつまでも、同じ過ちを繰り返すね」
「ああ、でも、フランスでも同じことがあるんだよ。こんなに立派な人権の国でも、俺たちアラブ人は真っ先に差別の対象になる。テロの後、仕方ないことだけど、どこにいても職務質問を受けた。それに抗議をした俺の仲間は警察に逮捕された」
リコはものすごく大きくて、怖い印象があるので、最初は近づき難かった。でも、ある日、道端の花に水をあげているのを見てから、この人の優しさが分かった。本当に優しい心根を持った人で、忙しい常連さんの代わりに買い物に行ったり、盲人の方の手を引いて道を渡ったり、ご年配のマダムの荷物を持ったり、見た目は怖いけど、虫も殺せないような優しい性格の持ち主なのだ。たしかに彼の仲間たちは一歩間違えたらギャングでもおかしくないような連中だけど、リコが揉め事の仲裁に入り、いつも丸くおさめてきた。だから、彼は警官に殺された黒人の人のことを考え、胸を痛め、目を腫らしていたのである。
「同じ人間なのに、差別のなくならないこの世界のことを思うと、コロナよりも嫌になるんだよ」
この人は心が優し過ぎるのだ、と思った。
ぼくはなぜか、鈍感だからか、この国で差別を受けたことがない。嫌な思いをしたら、日本語で怒鳴り返して相手をきょとんとさせるだけの度胸もある。差別される側にもやり返せない弱さがあるんだ。これがぼくの持論だったが、リコは、ぼくのこの発言に反発した。
「それは、君が日本人で、日本の保護の中にあるから、そういう考えでいられるんだ。でも、ぼくらは海を渡り、フランス人となり、この国で生きるようになり、ここでは移民というレッテルを貼られている。そして、宗教の問題もあるし、テロが起こるたびに後ろめたい気持ちになる。根深い差別の問題と隣り合わせで生きなけれならない」
ぼくは言葉を見つけられなかった。リコは笑顔で、肩を竦めてみせた。
「でも、フランスが大好きだ。アメリカだったら、もっと生き難かったかもしれない。だからさ、フロイドさんのことを思うと悲しくなるんだよ」
「フロイドさん?」
「警官に殺された人だよ。普通に生きていた。殺されるとは思ってもいなかっただろう。コロナのせいで、ポピュリズムが蔓延してきた。そのしわ寄せで、死ななくていい人まで死んでるんだ」
その後、ぼくは移動し、教会前広場のベンチに座り、携帯でミネアポリスの暴動のニュースを追いかけていた。トランプ大統領が「略奪が始まったら銃撃を始める。ありがとう!」とツイートした。ツイッター社がこれに対して、「暴力を美化している」という注意喚起する表示を付けたのだ。26日にも大統領が秋の大統領選挙の投票方法を批判した投稿にも「根拠がない」の注釈をつけていた。大統領はそれに対してSNSの閉鎖を示唆したのだが、ツイッターは気にせず、さらに注意喚起をしたのだ。ツイートの誹謗中傷にも注意喚起の表示を付けたらいいのに、そしたら木村花さんは死ななくて済んだかもしれない、と思った。
「よお、エクリヴァン(作家)」と声がしたので顔をあげると、アドリアンだった。「よお、フィロゾフ(哲学者)よ」とぼくは返した。どうした、浮かない顔しているな、と言うので、ミネアポリスの黒人殺害事件のこと、トランプ大統領のツイートのことなどを手短に説明した。すると、アドリアンは葉巻をふかしながら、ぼくの横に腰を下ろし、微笑んだ。
「アメリカはそういう国だ。ポピュリストの多くがトランプを信奉している」
「ああ、日本でも、ネットのコメントなんか読むとトランプ大統領の強引なやり方を支持する人が結構いる」
「そうか、なるほど、面白いな。しかし、そういう連中がアメリカに行くだろ、すると、真っ先に差別されるんだ。トランプは白人しか見てない。アメリカの白人至上主義者は日本を利用しているだけで、友だちでもなんでもない。あまり、信じない方がいい」
その話しの流れから、アドリアンがミネアポリスの黒人殺害事件がきっかけで、世界が戦争になるかもしれない、と言い出した。
「つまりだな、ツジ、今、この世界で起こっていることはぜんぶ繋がってる。このミネアポリスの黒人殺害事件は、この後続く世界の悲劇へと流れる前哨戦の一つかもしれないんだよ」
と言った。
「市場経済が行きつくところまできたこの世界にコロナが出現した。しかし、その直前には、もともとポピュリズムが台頭しつつある土台が出来つつあった。英国のEU離脱、欧州各国での極右台頭。もともと世界が門戸を閉じかけていたところにこの新型コロナが出現し、完全に各国の門が閉ざされた。どこも自国を守るので精いっぱいなので世界のバランスなど考える余裕がない。11月のアメリカの大統領選が引き金になる。10万人を超えるコロナの死亡者、失業者は2500万人を超え、失業保険申請件数は4000万件を超えた。リーマンショックの時と比べ3倍以上の深刻度だ。このままじゃ、トランプ政権は勝てない。だいたい戦争というのは、歴史の流れからみて、国内の問題から国民の目を逸らすために起こるんだ。そういう意味では目が離せない。特に夏以降」
「夏以降? どうなる?」
「物事というのは一気に何かが起こるわけじゃないんだ。いくつもの出来事が重なって、それが予期せぬ運動を引き起こし、巻き込んで、思いもよらなかったことを引き起こす。大統領戦に勝つためには、まず、敵を作り、そいつらを叩く必要が出てくる。敵の一つは中国で、もう一つはオバマと民主党だ。どちらも愛国心を煽ればいい。国民がこのままじゃヤバイと思う状況を作り出す。武漢発生説にトランプがこだわるのもその行動の一つ。ファーウエイの排除もこの流れの一つ、ここにはイギリスとオーストラリアが加担している。日本や韓国にも裏で力を合わせろという命令が出ているだろう。中国を包囲するのが目的じゃない。中国に火をつけ、もめ事を起こさせる。中国もアメリカと本気で戦争は出来ない。だから、香港でもいい。チベットでもいい。ホルムズ海峡でも、北朝鮮でもいい。大やけどしない程度の火事を起こし、時期としては夏以降、9月から10月くらいにかけて紛争を起こし、アメリカ軍がそれを消しに行く。戦争になると、地域の不安定化が加速し、軍需産業が儲かるので、アメリカの経済は回復する。ボーイングなんかも復活出来る。コロナ世界大戦だ。戦時下にあるとだいたい歴史的にみて現政権が強くなる。コロナ禍のマクロン政権、メルケル政権、ジョンソン政権、コンテ政権、皆しかりだ。トランプはしかし新型コロナには勝利出来そうにない。なので彼の選択肢は2つしかない。1つは11月までにワクチンを開発することだが、これはちょっと不可能なので、ということは戦争がリアリティを増す。大規模な戦争じゃない。自分たちのリスクを持たない局地戦だ。アメリカのわかりやすい有権者はトランプを選ぶだろう。暴走するアメリカを止める国はいない。コロナによる経済不振のせいで、どこも自国の問題で手いっぱいな状態だからだ」
アドリアンは口元を緩めた。
「こうならないことを、俺は祈ってる」