JINSEI STORIES
滞仏日記「辻家に青春のさわやかな風がふきぬける。春よ来い」 Posted on 2019/03/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、12時間以上寝た。週末になると何もする気がおきない。家の中は荒れ放題だ。キッチンのシンクには食べ終わった皿やコップが積み上げられ、ふろ場には脱ぎっぱなしの衣服、リビングルームも仕事場も子供部屋も、まったく酷い状態だ。仕事で手一杯になるとどうしても身体が動かなくなる。食事を作る気もおきないので、中華のお惣菜を買ってきて電子レンジでチンして夕食にした。食べたら眠くなって布団に潜り込んだら、珍しくノンストップで12時間も寝た。普段、3~4時間睡眠なので、僕にしては驚異的な記録となった。目が覚めても動けずにいると、遠くから息子の名前を呼ぶ若い女の子のとっても可愛らしい声が聞こえてきた。それがリズミカルに繰り返されている。息子が頑なにガールフレンドじゃないと否定する子の声だと分かった。ベッドを抜け出し、廊下で耳を澄ませた。スカイプのようなアプリを使って二人はいつも長話をしている。僕の時代は電話だった。よく母さんに叱られたなぁ、「長すぎる、要点だけにしなさい」と。要点なんかないんだよ、僕たちには、と言い返していたっけ・・・・。
抜き足差し足で子供部屋の近くまで行った自分をもう一人の自分が「ダメだよ、そっとしておけよ。聞いちゃダメだ、仁成」と叱った。分かっちゃいるけど、顔がついニヤニヤしてしまう。息子はただの女友だちだと言い張るけど、そういうやり取りにはちっとも聞こえない。彼女はまるで愛おしい恋人を呼ぶようにキーの高い声で、息子の名前を繰り返す。それがまるで音楽のようで、うっとりする。すると息子が低い声で(昔はとっても高い声だったのに、今はけっこうおっさんの声になった)「oui」と返事をしている。「何がウイだ馬鹿野郎~」と僕は思わず言いそうになり、もう一人の僕に口をふさがれてしまった。青春だな、と思うと、自分の昔を思い出した。いい時代だった。そういう日々が自分にもあったので、何か幸福貰いをした気分になる。僕の初恋はいつだっただろう。その子のことを考えると幸せな気持ちになった。確かに、恋人じゃなかったけれど、その子と学校で話をするのが好きだった。息子よ、でも、それが初恋というものじゃないか、とパパは思うよ。恋とか、愛とか、そういう形に縛られることなく、異性の友達といつまでも話をしていたいと思う気持ちは青春の為せる業なのだよ。自分のことのように嬉しい父親の気持ちが誰かに分かるだろうか? 息子じゃなく娘だったらまた違った気持ちになるのだろう、と思った。
僕のパソコンの待機画面は息子と二人きりで暮らすようになった年に二人で旅したストラスブールでの二人の影絵の写真である。胸の高さもなかった少年が、今は僕の身長を遥かに超えて見上げないとならなくなった。小さかった息子の肩を抱きしめ、二人で歩いた初春のストラスブールの光景が蘇る。その光景の中に女の子のキーの高い声がリズミカルに流れていく。息子の名前も可愛い子が呼ぶとこんなにキュートな名前になるんだ、と改めて思った。あんなに小さかったのに、と僕は微笑みながら振り返る。その気持ちで部屋と人生を振り返った。散らかった部屋を片付けようと思った。こうやって息子にガールフレンドが出来たことは奇跡だ。こうやって僕がまだこの世界で生き続けていられることも奇跡だ。こうやって僕と息子が無事にここまで怪我も事故もなく暮らすことが出来たことも奇跡だ。何もかも奇跡なのだと思った。よく生きてきたじゃないか、と鏡に映った自分に向かって僕は呟いた。それから、僕はおとなしくキッチンに行き、食器を洗い始めることになる。