JINSEI STORIES
滞仏日記「恋を忘れた作家からの手紙」 Posted on 2019/03/13 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、思えば、恋愛してないなぁ、と今日はキッチンでボロネーズを作りながらふと考えてしまった。離婚から6年が経つけど、子育てと家事と生活と仕事に翻弄されて、燃え上がる恋愛小説のような恋をする暇がなかった。恋愛というのは物凄く力がいるので、今の自分には、燃えカスのような僕には、とてもじゃないけど女性と愛に向かって走る力なんて残ってない。息子が9月に高校生になるし、その3年後には大学へ進学するという大事な時期でもあるし、僕が浮かれているわけにもいかない。でも、ボロネーズを作りながら、鍋を回している木製のレードルが止まる。恋愛のあのドキドキするような感じを思い出しながら・・・。でも、と僕はかぶりを振る。子供の下着を洗濯機に放り込んで、ぐるぐると回る洗濯物を見つめながら、燃え上がる恋ってどんなんだったっけ、と思い出しながら、それがまるでコミック漫画のようだったことを思い出して、無理だわ、とため息がこぼれる。よくあんな「冷静と情熱のあいだ」だとか「サヨナライツカ」なんてものを書けたものだ、と苦笑しか出てこない。毎年味噌なんかをキッチンで作っている僕なんかに、恋心を抱く人はよっぽどの変わり者ということになる。今年も味噌をまた作ってしまった。その味噌は今、流しの下の涼しい冷暗所でいい具合に熟成している。
でも、こんな僕なんかでも、好意を持ってくださる珍しい人もいることにはいるのだけど、若い頃とは違い、どうも、腰が上がらない。見つめられたり、不意に手を握られたり、なんとなく、そういうシチュエーションになると、僕の方から辞退し、さっと席を立って、「すいません、息子のおやつを作らなきゃならないので失礼します」ってわけのわからない言い訳をして逃げ出している始末だ。申し訳なくなるので、出来るだけ女性と二人きりになるような場面は避けるようにしてひっそりと生きてきた。恋愛というのが怖いのかもしれない。「愛している」とか言われても、「愛している」はもはや僕の中では死語だったりする。そんなこと今まで一度もなかったので病気かもしれない。たぶん、病気だ。夜な夜な息子のパンツを干しているような男が甘い言葉を囁けるわけもない。糠味噌臭い男に愛を囁かれたい珍しい女性もいるかもしれないけど、いずれにしても、恋愛関係に発展しにくい。ある時、そういうことを小説にしてみよう、と思った。それはとってもいいアイデアだった。きっと今の僕にしか書けないものが書けるはずじゃないか、と思った。思った次の瞬間、なんとなく、泣けてきた。
「愛情漂流」という作品はこういう日常の中で書き上げた。二組の夫婦とその子供たちの物語なのだけど、これまでの恋愛小説とはぜんぜん違っている。「冷静と情熱のあいだ」や「サヨナライツカ」が非現実的な人々の恋愛物語、スケールの大きなドラマチックなおとぎ話だったのに対して、この「愛情漂流」はちっともきれいごとのない、人生や運命に振り回されながら自分の愛の出口を必死に探す愛の漂流者の心の空洞を描いた、今の時代の物語である。フィレンツェやバンコクのような風光明媚な舞台は一つもない。モノクロの住宅地にある幼稚園の周辺で繰り返される愛憎劇だ。僕はそういう小説を自宅の、息子が学校に行ってる間の静かな時間に、洗濯や掃除の合間に少しずつ書き溜めてきた。今の僕にしか書けないものがあるとしたら、この作品ということになるかもしれない。四人の登場人物の中に僕がいる。僕は恐ろしいほど冷静に世界を見つめている。彼らが発する愛という言葉の耐えられない重みと軽さ・・・。小説を脱稿した日、僕は仕事部屋の天井に描かれた百年前の天使を撮影し、編集部に送った。この天使を装丁につかってもらえないだろうか、と担当編集者さんにお願いをした。まだ、装丁の見本は出来上がってこないけれど、真っ白な冬の海原のような表紙になるはずだ。