JINSEI STORIES
滞仏日記「ジャン・フォレスト100歳の誕生日に」 Posted on 2019/02/18 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、行きつけの中華料理店に息子と昼食を食べに出かけると、その日は常連のジャン・フォレストの誕生日会が奥のホールで行われていた。行けば必ずいる常連さんだが、100歳とは思えないほどに矍鑠としている。フランスにも老人ホームがあるが、それ以上にお金がかかるけれど、在宅で終日介護を受けることもできる。一週間、3交代制で、24時間誰かが寄り添ってくれる。ジャンは元貴族なのでお金もあり、老人ホームではなく自宅で死ぬ道を選んだ。僕と息子がランチに行くと、いつもの決まった席で介護士と共に食事をしている。彼以外にそこに座る者はいない、特別な客のための特別な定席。中国系のオーナー夫妻は半ば彼のために食事を作っているといっても過言ではない。彼は365日、昼間はそこで中華料理を食べている。息子は嫌がっていたけど、中国系のオーナー夫婦に招かれたので僕らは末席を温めることになった。こういうのは勉強になるからと嫌がる息子を引きずり込んだ。100歳のご隠居のお友達と言っても、平均年齢は80歳くらい。同世代の友達はみんな他界し、息子娘の友達たちしか残っていない。ジャンは長生きした分、誰よりも孤独であった。なかなかこんなにたくさんのフランス人のご老人たちと同席することはない。ジャンが愛されて生きてきたことを物語っていた。僕と息子は並んで座り、彼のスピーチに耳を傾けた。
「諸君、今日はありがとう。長生きをすることは幸福ではあるけど、残酷でもあるね。失われていく記憶を必死で思い出しながら、僕は100年の人生を懐かしむ毎日を生きている。さて、今日は僕の誕生日だし、自由にしゃべらせてもらうことにしよう。もっとも古い記憶の一つ、僕の父についての話をする。それは僕が5歳の時のことだ。父は誰よりも寡黙は人で彼が誰かとペラペラと喋っているのを僕は見たことがない。たぶん、僕は父と話をしたくて質問をしたのだと思う。なんて訊いたかって、それはつまり『パパは戦争で人を殺したことがあるのか』って質問したんだよ。残酷な質問だった。父は黙っていたが、僕が黙って待っていると、まもなく『殺したよ』と自白した。僕がどんなに驚いたか、想像をしてほしい。こういう質問をしてしまったことを後悔したほどだった。父は目を細めて『残酷な世界だった』と続けた。『僕と敵兵は一対一で向かい合っていた。他に、誰もいなかった。やるかやられるかの戦場だった。自分が生き残るためにはその人を殺さないとならなかった。想像してみてほしい、彼にも家族がいたはずだ。僕の母や僕の父と同じように彼にも両親がいて、もしかすると許嫁がいたかもしれない。そういう人を僕は殺さなければならなかった』と父は悲しそうな声で語った。『それが戦争だった』と。100歳になるけど、これが一番忘れられない僕の記憶なんです。戦争は誰も幸せにしない。そのことをこの100年、僕は思い続けてきました」
僕の息子は小さな頃に、「人生山あり谷あり戦争なし」という彼が作った標語? をよく呟いていた。幼い子供だった僕の息子は誰が教えたのか戦争を憎んでいた。今も彼は博愛主義者で、僕とはずいぶんと違って、決して人の悪口を言わないし、差別もしない。パパみたいな差別主義者は天罰が下るよ、と罵られたこともある。彼がなぜこんなに正義感が強いのか、何の影響なのかはわからないけど、それは15歳になった今も変わらない。輪廻を信じるわけではないけど、もしかしたら彼に宿った魂は戦争で悲しい経験を持ったことがあるのかもしれない。だから、息子はこの100歳の老人の話に何か特別な感動を覚えていたようだ。帰り道、ずっと黙っていた。100歳のお爺さんが一生抱えてきた彼のお父さんの心の傷をなんとなく息子が受け継ぎそれをあと数十年持って生きるのかと思うと不思議でならなかった。そのお爺さんのお父さんが殺した若い兵士の悲しみまでも共に今ここにある、と僕は思った。