JINSEI STORIES
滞仏日記「そんなに悪い一日ではなかった」 Posted on 2019/02/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、朝の6時40分に目が覚める。
ツイートを一つ打ってから、キッチンに行き、人参ジュースを作って飲む。
健康のためにこのところ毎朝ジューサーで人参を絞って飲むのが習慣化している。
冷蔵庫と相談してから、息子の朝ご飯を拵える。
玉ねぎと羽田空港で買ったさつま揚げを使って適当な卵丼を拵える。
美味いか、と訊いても返事は戻ってこない。行ってらっしゃい、と肩を叩いても特に返事はなし。
7時43分、僕よりも大きな息子が家を出て行く。
階段の踊り場まで見送る。
「無理するなよ、頑張りすぎるな」と声をかけるが、返事はない。
僕の声は空しく螺旋階段に落下する。
肩を竦めてから、仕事場に行き、ウォーミングアップも兼ねて日記を書きはじめる。
毎回、何を書くかは決めていない。
その時に思ったことをそのまま記して行く。
だいたい30分ほどで書き上げる。
読み返さないですぐに投稿する。
誤字のチェックはデザインストーリーズのスタッフに委ねている。
連載とか依頼されたエッセイなどの執筆に移る。
珍しくお腹が鳴る。
作業を中断し、エビと人参とネギと玉ねぎのかき揚げ蕎麦を作って食べる。
お腹がいっぱいになったら眠くなったので小一時間昼寝をする。
映画の台本を持って、たまに顔を出すボンマルシェに近いカフェに行く。
甘いものを食べたくなって、ババ・オ・ラムを頼む。
ギャルソンが何か冗談を言ってくるが、よく理解できない。行きつけのパン屋でバケットを一本買い家路につく。
見慣れないブティックがあったので足を止めてショーウィンドーを眺めていると、映画の悪役みたいな店主と目が合い、手招きされる。
暇だったので中に入る。
スニーカーなのだけど、一枚革で作られたこだわりようで、足を入れた瞬間の心地よさに思わず、すごい、と声が飛び出す。
店主が自慢げに微笑む。
30年ぶりくらいにスニーカーを買ってしまう。
夜ご飯の献立を考えながら再び歩く。
有機食材のスーパーに立ち寄る。顔馴染みの店員が、明日はまたパリ全域で黄色いベスト運動のデモ行進があるので気を付けて、と教えられる。
なんと今週はデモ3か月を記念して日曜日までデモをやるらしい。
サラダニソワーズの材料を買ってから家に戻る。
下の階の子供達(2歳と4歳)が交差点で僕に気が付き、ムッシュー、ボンジュール、と手を振ってくる。
僕は笑顔で、ボンジュール、と手を振り返す。
古本屋のマダムに呼び止められ、新作はいつ出るのか、と質問される。
わかりません、と肩を竦める。
アンティークショップの店主にウインクされる。
中華料理店の店主に、マエストロ、と呼び止められ、イギリスのEU離脱について立ち話。
なぜ、息子は返事をしないのだろうと考えてしまう。
部屋の片付けをする。
お風呂に入る。
風呂上り、ビールを飲む。いつもより2時間も早く息子が戻って来る。
おかえり、と言うと、ただいま、と返事が戻って来た! 返事に喜ぶ。
なんとなく夕飯の準備をはじめる。
子供部屋から息子の声が聞こえてくる。
友達とスカイプで話している。
彼が喋るフランス語を僕は理解できない。
相手は女の子のようだ。興味津々。
デートの約束をしている。
まじか、と思うが、余計なことは言えない。
サンドイッチを作って子供部屋に届けるついでに彼らの話を立ち聞きする。
どうやら明日、待ち合わせているようだ。
「あのな、明日、大規模なデモがあるから気を付けろよ」と日本語で伝える。
息子が僕を振り返る。睨まれる。
僕は肩を竦めてから、そそくさと部屋を出る。
ギターを爪弾きながら歌う。
ここのところ映画レオンの主題歌「Shape of my heart」を練習している。
晴れていて、夕刻の日差しが気持ち良い。
だんだん雰囲気が出てきて、思わず大きな声で歌ってしまう。
子供部屋のドアがバタンと音をたてて閉まる。
僕は小さく肩を竦める。
陽が落ちる頃、夕食を作り始める。
窓の外、隣の建物の灯りが見える。
料理する手を休めて、その光りをしばし見つめる。
なんてことのないごく普通の一日が過ぎていく。
誰に言うわけでもなく、今日もありがとう、と声にする。返事はない。夜、19時半、二人でご飯を食べる。美味いか、と訊くと、美味いよ、と息子が言う。
僕は肩を竦める。
「明日はデートなのか?」とつい聞いてしまう。
「パパ、いちいちそんなこと聞かれたら女の子の友達作れなくなるからね」と釘を刺される。僕は微笑みながら肩を竦めてしまう。
やれやれ、父親とは因果な商売である。
食べ終わった皿を片付ける。
インスタグラムに今日食べたババ・オ・ラムの写真をアップする。
なんとなく、まだ時差ボケが続いている。眠い。
パジャマに着替えて、子供部屋に向かって、おやすみ、と声を投げつけるが、もちろん、返事なし。
寝室に行き、大好きなベッドに潜り込んで読みかけの本を読んでいると息子が顔を出して、おやすみ、と笑顔で言った。
また今日も終わる。
そんなに悪い一日ではなかった。
僕は肩を竦めてから、目を閉じた。