JINSEI STORIES

滞仏日記「生きようじゃないか、という結論」 Posted on 2019/02/10   

 
某月某日、今日は「タイタンの学校」の講師の日、生徒たちを前にいろいろと話をした。寺子屋のようなことをやりたいという太田光代の熱い思いに共感して講師を引き受けたが、タイタンの学校というだけあってマスコミ、放送作家、そのままずばり芸人を目指す人など多種多様な目的意識を持った受講生たちの集まりだった。初年度最後の授業だったので今日は質疑応答を中心に75分間彼らと向かい合った。表現や創作の方法についての質問が続いたが、最後に一人の男性が手をあげ「死にたいのだけど」と切り出した。一瞬、教室からどよめきが起きた。表現はしたいが誰もが表現者になれるわけじゃなく、表現をしたとしても観客としての自分が冷静に自分を見つめると評価できそうもなく結局生きている希望が失せていく、というような趣旨だった。まさに授業が終わろうとしていたその最後の5分で発せられた礫であった。そこに集まった受講生の半分は芸人を目指すような子たちで、明るく、人を笑わせるのが得意な感じの人たちだった。そこにぽいと放り込まれた「死にたい」という一言がそこに相応しくなくて、同時に、とっても正直な問いかけだと僕は思った。

わずか五分間で人の死にたいという気持ちを引き留めるほどの力が自分にないことは分かっていた。だから僕は自分が死にたかった時の話をはじめた。何度か死にたいと思ったことがあった。最近だってある。シングルファザーになった年は本当に何度か死にたいと思った。マスコミに囲まれてぼこぼこにされた時に、くだらない世界だ、と僕は思った。どん底というのとは違う。絶望でもない。無力感とも違う、でも漠然と、何か世界がなくなればいいと思うほど負の力に支配されたこともあった。確かに、若い頃は何度も底なしの自己嫌悪に陥った。でも、自分を責め続けていたら、ある瞬間に面白いことに気が付いた。暗闇の中に薄い光りが差し込んでくるような僅かな希望が見えた。なぜだろう、自己嫌悪というのは悪くないと思ったのだ。自分を嫌悪出来るということはまだうぬぼれてないという証拠であり、自分を誰よりも知っているということだとその時に思った。だから自己嫌悪が生まれるのだとすればまだ自分にチャンスはある、と思い直した。人間はいつか必ず死ぬ運命を持って生まれてきたのだから、死ぬのはいつでもできるともう一度思い直して、僕は生きることを決意した。19で死ぬつもりだったけど、29でも死ねなくて、39になり、49でも死ねなくて、59になったら、もう死ぬ気にはなれなかった。ずうずうしく僕は生きている。ただし、いつか来る死というものが納得できるように残された時間を精一杯生きてみようと自分に言い聞かせることが出来た。僕のお粗末な人生をその人がどう思ったのかわからないけど、帰りに近づいてきたその男性に向かって「だから、死ぬなよ」と言ったら、笑ってくれた。悪くない笑顔だった。

帰りの車の中で携帯を見たら、たくさんの人生の難題が、仲間たちから付きつけられていた。僕はどうもそういうことを質問されてしまう運命にあるようだ。たまに顔を出す焼き肉屋さんに行ったら、店員さんが高級なコートを違うお客さんに渡してしまって激怒されて困っている、どうしたらいいですか、と質問されたので、お客さんを突き放してはいけない、間違えたのは自分だから、客商売は怒った相手をも味方にしてこその勝利だと思って、と自分じゃない自分が答えた。でも、僕は神様じゃないから誰も救ってあげることは出来ないし、自分だって逃げたいのだと答えながら思ってもいた。男手一つで息子を育てているだけでも死にたくなるのに、人を励ましたり、間違えたコートの世話までしている自分とは何か、と失笑さえ起きる。でもその若いお店の人にとっては一大事なのだということもわかるのでその時はきちんと向かいあう。深夜にその焼き肉屋の若い人から、ちゃんと向かい合ったら解決しました、ありがとうございます、というメッセージが入って来て、僕は、よかった、とだけ返して寝た。まだ時差と闘っている。生きようじゃないか、と59歳の僕は言いたい。
 

滞仏日記「生きようじゃないか、という結論」