JINSEI STORIES

滞仏日記「昨日の世界から」 Posted on 2019/02/04 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、今日はライブだった。パリから東京に入ってすぐで59歳で16時半からと19時からの2ステージで、中30分しか休憩なしの約4時間はさすがにちょっとハードだったけれど、でも、やればまだ出来るんだ、と歌い切った自分に驚いた。ライブがはじまった16時半というのはフランス時間だと朝の八時半じゃないか、と歌いながら考えてしまい眠かった。でも、結局、また眠れなくて、翌日の昼前に(つまり今だ)この日記を書いている。フランスに移り住んでから、この時差とずっと戦っている。地球の裏側から一万キロを旅してここにいるのだから、当然無害というわけにはいかない。8時間の時差が僕の身体に与える影響というのは大きい。でも、こんなに日仏を行き来していると時差もちょっと慣れてきた。実はパリから東京へ向かうより、東京からパリに戻る方が身体は楽だ。地球の自転の問題があるのかもしれない。そういえば、高度一万メートルの飛行機の中でガイガーカウンターのスイッチを付けると一瞬で針が振り切れる。レッドゾーンなんてものじゃない。針が張り付いて動かなくなるのを機内でじっと見ている時の心臓の鼓動といったらない。ともかく、日仏の移動はいろいろな問題で僕の肉体を酷使させている。

「日付変更線」という小説はこの時差を主題に書いた。東京からハワイに向かうと日付変更線を超えて昨日の世界に戻ることになる。もし、過去に戻りたい人たちがいたら、と思いついた。太平洋戦争がはじまった時、アメリカ本土とハワイには大勢の日本人移民がいた。とくにその二世たちはアメリカへの忠誠を誓い兵役についた。日系アメリカ人だけで組織された第442連隊戦闘団。彼らは欧州の最前線に送られた。イタリアで、或いはフランスのストラスブールに近い村ブリュイエールで一万人近い若い日系人が死傷している。驚くべきことにその死傷率はのべ314パーセントに達する。そこに投入された兵士はことごとく死傷した。そして、アメリカ軍史上もっとも勲章を受けた部隊でもある。僕は彼らが戦ったその激戦地、ブリュイエール村を訪ねた。いまだに市街戦の銃弾の痕が建物の壁に残っている。激しい戦闘が連日続いたのだ。何を思って彼らはそこで命を落としたのか、落とさなければならなかったのか、僕はその簡素な村の路地で想像した。ハワイに残してきた恋人を母親のことを思いながら死んでいった。僕は彼らの人生を生きてないけれど、これは書かなければと思った。日本人の血を持ち、でも、アメリカで生まれたことで、戦争に巻き込まれ、フランスで死んだ日系人のことをフランス人は知らないし、日本人も知らない。でも、あの時、フランスを解放したのはアメリカ軍だと誰もが思ってるしその通りだが、そのひなびた村の市役所の壁に飾られたほとんどのアメリカ兵の写真は白人の顔ではなく、僕と同じ顔の日系人ばかり。僕はその小さな通りの真ん中で涙を流した。彼らの合言葉はGO FOR BROKE(当たって砕けろ)だった。

先ほど、息子に連絡をしたら彼はまだ昨日の世界にいた。僕は今日にいる。息子は昨日の世界で「話をしたい友達が電話に出ない」と悩んでいた。どうも、わざと出ないみたいで、いろいろな理由を付けて電話に出ないから、信じられなくなってきた、と息子は言った。でも、人を信じられなくなるというのは大人になった証拠かもしれない、と言っておいた。それがいいか悪いかは別に・・・。なんでもかんでもその通りにはならないのが人生だ。信じられることを探すのがいいだろう、と僕は今日の世界からアドバイスを送っておいた。おやすみ、と僕はいい。おはよう、と彼は言った。
 

滞仏日記「昨日の世界から」