JINSEI STORIES
滞仏日記「時間がない人生についてマルシェで考えた」 Posted on 2020/01/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、とにかく、頭にきた。「時間がない。忙しい。また今度連絡します。取り急ぎ」というメールが来た。そもそも、仕事の依頼をしておいて、これはない、と思う。人を待たせておいて、取り急ぎってなんなんだ!でも、こういう人間と関わらない方がいいということが分かったので、ぼくは買い物に出かけた。
毎週木曜の朝は近所のマルシェにキャリーバックを引っ張って出かけ、日曜までの食材を買う。スーパーで買うより断然新鮮で料金もぐんと安く経済的。行きつけの店ばかりだから、一軒一軒に顔を出す。今日はまず仲良しの金物屋のジャックの店に行き、日本で買った新潟産のグローバルの包丁を研いで貰った。自分でもできるが、ジャックがやると切れ味抜群となる。滅多に彼の店では買わないけど、仲良しなので、やってくれる。「おお、サムライ、今日は何、食うんだ?」と訊かれたので、「何がいいかな」と言ったら、肉屋を指差し「ジビエがそろそろ終わりだから、包丁もいい感じだし、俺なら、山鶉(ヤマウズラ)かな」と言った。
それにしても人間はのんびり生きた方がいい。時間が無い、なんて言ってる人間をぼくは信用しない。返事をよこさない人間も信用できない。誠意のない人の、人間に優先順位をつけてるあの偉そうな感じがいけん。
肉屋に行くとテンガロンハットを被った店主(女性)が「お、若いの。今日は何にするかね」と満面の笑みとウインクを手向けてくれた。このママはぼくを若いのと呼んでくれる。人生にゆとりのあるいい顔をしてるじゃないか。市場の顔になるといいものを安く手に入れることが出来る。出来るだけ毎回同じ店に顔を出し、買わなくても挨拶だけはしておくことが秘訣だ。そうすると、旬の一番おいしいところを回してくれるし、時には「持ってけ」とくれることもある。ぼくはケースにずらりと並んだ山鶉を指さした。それにしても、頭もついているし、グロテスクなので自分では捌けない。「ルーシー頼むよ」とお願いしたら、肉切り包丁を突き出して「ガッテンだ」ともちろんフランス語で歯をむき出して笑った。個体差があるので、小さすぎず、大きすぎず、肉や皮の色つやを確かめ、最後はルーシーと一緒に決めた。ルーシーはまず、小さい包丁で首の筋を切り、でかい肉切り包丁で頭を落とし、次に羽を付け根からどんどんと切り落とし、次に赤い足先をばんばんと切り落とし、腹部に切れ目を入れて内臓を取り出したら、最後にバーナーで毛を焼き落した。この光景も、すっかり見慣れてしまったけど、渡仏した直後はとてもじゃないけれど直視できなかった。しかし、ウサギは今でも無理。
軽く塩胡椒をして、オーブンにぶっこんだら、時間が調理してくれるので、ほっといても最高級の山鶉のローストが食べられる。マスタードを塗って、赤ワインと一緒に頬張る。ヘルシーで、ジューシーで、栄養価がものすごく高い。ジビエの中のジビエである。
でも、この鶉は明日にして、今日はちょっと寒いので鍋にしようかな、と思いついた。そこで馴染みの魚屋に行き、物色した。家に白みそと粕があったことを思い出した。サーモンを買ったら髭もじゃもじゃの店主エルベが「旦那、今日は天然の鯛がお買い得だよ」と教えてくれた。みると一尾千円であった。天然千円、安い、買います、ということで鍋と鯛めしに決定した。鯛は半フィレ残るので、翌日カルパッチョに、サーモンは味噌でつけておくと日曜日まで持つので有難い。今日は一部を刺身に、残りで酒粕鍋にする。あ、ほんなら鍋に入れる茸がいるじゃん。ということで馴染みのアンジェラちゃんの茸専門店に顔を出した。
広い市場を、光りに導かれるようにしながら歩く。ぼくの夢はあと数年後に、時間が無いという人間としなきゃならないような仕事は全部やめてパリを離れるつもり。息子が大学を卒業する前までに海辺に小さな家を買って、そこで愛犬と生きる。ちょっとずつ、お金にならなくても小説を書いて、年を取っていきたい。その地域の市場に行き、神さまの愛が注がれた食材を買って、腹八分目で頂く。そういう生活が夢だ。それはいつのことだろうと、思いながら、茸を選んだ。パリは今、日本の椎茸が「SHIITAKE」とハイカラに改名して静かに流行中だ。エリンギとヒラタケも買った。
パン屋でバケットを買ってから、最後に行きつけの八百屋に顔を出し、週末家で食べる野菜を大量に購入した。大きな人参二本、大きなポワローネギ二本、ズッキーニ大二本、大きな蕪を三個、玉ねぎ大を三個、芽キャベツは20個入り一袋、生姜大、を買って千円くらい。フランスの市場野菜はびっくりするくらいに安い。日本滞在中もぼくは自炊しているけど、キャベツとか信じられないくらいに高い時があって手が出ない。とんかつ屋さんが心配になる。
家に帰って、キッチンで人生についていろいろと再考しながら料理の下準備をやった。食材と向き合い、研いだ包丁で丁寧に一つずつを切り分けていくと落ち着く。腹が立っていた無礼な人間のことも忘れられる。ぼくには時間がある。時間は作るもので、それを言い訳にしてはよくない。人に対して、時間が無い、忙しい、は本当に失礼である。
それから、土鍋で鯛めしを作り、ルクルーゼ鍋で酒粕鍋を作った。土鍋やルクルーゼが奮闘している間、ぼくはギターと歌の練習をした。食と共に生きる、平穏で、なんてことはない一日を生きた。今日の食材の材料費は全部で3千円ちょっと。これで三~四日間分、だいたい8食をカバーする。数字は家計簿につけて、無駄遣いをしないよう注意している。人生は「細く長く安く美味しくに限る」がぼくのモットーなのである。