JINSEI STORIES
滞仏日記「ゴーン被告人とトランプ大統領に共通するもの」 Posted on 2020/01/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくが高校生の時、1976年のことだったが、田中角栄首相が東京地検特捜部によって逮捕されるという衝撃的な事件が起きた。その時、ぼくははじめて東京地検特捜部という名称を聞いた。そして、一国の首相を逮捕出来るこの人たちはいったい何者だろうと思った。どこかで東京地検特捜部を誇らしく思ったし、謎めいていたので怖くもあった。あれから、40年ほどの歳月が流れた。今日、ゴーンさんの記者会見を受け、東京地検の次席検事が異例のコメントを出した。田中角栄前首相を逮捕出来た東京地検でもこのような結果を受け入れなければならない展開になったのだな、と思った。正直、ゴーンさんの記者会見は想像を超えるものではなかったし、つまらなかったけれど、きっと東京地検の人たちが受けた悔しさは想像をこえるものだったはずだ。日本の司法制度に戦争をしかけたゴーンさんにも一理はあり、しかし、このままで終わらせてはいけない、という複雑な不快感も強く残った。
日本のネット記事でフランス人の8割がゴーンさんを支持しているというのを読んだ。フィガロがやった緊急アンケートの結果だそうだが、フランス国内では、フィガロを読んでいる人はブルジョアの白人の金持ち階級の人たちが多い。左派系のル・モンドあたりがやったアンケートだとその数字は逆転するのじゃないか。少なくとも、パリは明日、9日、ストがはじまって過去最大規模のデモが行われる予定だけど、そこに参加する多くの労働者階級の人たちはアンチ・ゴーンさんであろう。先ほどやったフランスのテレビ討論会でとあるコメンテーターが「フランスのトップの会社の社長が楽器ケースに隠れて逃亡劇をやったことは、一体世界にフランス人のどういうイメージを与えたというのだ!」と怒っていた。こういう意見も実際、かなり多い。レバノンでの合同記者会見の後、フランスのテレビ局、LCIが単独でインタビューをやっている。そこでゴーンさんは「私が逮捕されて以降、ルノーの販売台数は激減し、日産はそれ以上に落ちた。君はどう思う?」とインタビューにくってかかっていた。「潰れかけていた日産を17年もかけてここまで復活させたのに、その連中に私は地に叩き落されたのだ、どう思う?」と身振り手振りでフランス人に訴えていた。ぼくはため息しか出なかった。たしかに当時の日産を思うと、よくぞ救ってくれましたという気持ちもあるし、首を切られた社員の方々のことを思うと複雑な気持ちになる。日産がもしも潰れていたら、と思うとぞっとする。たしかにゴーンは本当にパワーのある男だ。ベイルートで行われたLCIの単独インタビューはフランス語で行われ、機関銃のようにまくし立てていた。あの話術は凄い。日本にとっては手ごわい敵である。日本は民主主義国家かという質問に「民主主義だけど、ちょっと変った民主主義だ」と彼は答えた。そして、「誤解のないように言うならば、私は日本人が好きだし、多くの日本人に道を歩いていると声を掛けられ励まされた」と常にこう語るこの人のイメージ戦略のしたたかさだけが残った。同じように、トランプ大統領の思わせぶりな記者会見にもちょっと引くものを覚えた。
ゴーンさんの記者会見はフランスでも同時通訳付きで生放送されたが、その直後、今度はアメリカの大統領が米国民に向けて「イランから受けた報復攻撃の現状」について演説を行ったのだ。その時、ぼくはカフェにいたのだけど、周囲の人たちが携帯を一斉に覗き込んだ。彼がここで何を言うかで、今年の世界の流れが決まる、そういう一瞬でもあった。ところが「宣戦布告ではなく、戦争が回避されたような」印象を受ける内容で、隣の人たちから、とりあえず首が繋がったという安堵のため息が聞こえてきた。厳しい表情で「イランは身を引いているようだ」と大統領は述べ「しかし厳しい追加制裁を科す」と表明した。情報を鵜呑みにするしかないぼくらは振り回されている。
同じ日のほぼ近い時間帯に行われた、全世界が注目したこの二つの会見には、何か共通するものがあって、見終わった後に、割と想像通りの結論にちゃんと落とし込まれている印象を持った。普通の身分のぼくが密出国をしたら世界のどこにいようと逮捕されるだろうな、と思った。なのにゴーンさんはゴーンさんのまま元気いっぱいベイルートで日本批判を展開しているし、国民的英雄のソレイマニ司令官が殺害されたのであれば開戦してもおかしくないのに、イランはイラクの基地にあたりさわりのない攻撃をしただけで、トランプ大統領がイメージしていたかどうかは分からないけど、想定内の結果でいったんは終わった。イランとアメリカの大統領はそれぞれの国民に無難なメッセージを届けて今のところの戦争を無事に回避させることには成功した。でも、ソレイマニ司令官は殺されている。力で抑え込んだ状態なのだ。圧力鍋はまだ燃え盛る炎の上に置かれてある。真実はその鍋の中にある。これで幕引き出来るほど単純な状況ではない気がする。
トランプ大統領の行動の本質にいったい何があるのだろう、とずっと見守ってきたけれど、ぼくはいまだによくわからないでいる。彼がやりたいことが、イメージしているものが、見えない。時々、ふと思うことがある。もしかしたら、トランプさんには世界を明確にこうしたいというビジョンなんて最初からなかったんじゃないか、と。いやぁ、それは違う、アメリカの大統領なのだから、物凄く考え抜いた上であの好戦的な表情やツイートや言葉を駆使しているのだ、と何度も思い直してきたけれど、真剣に彼の演説を聞けば聞くほど、彼の後ろに並ぶ軍のトップや副大統領ともども、何かモンキーパイソンのコメディでも見ているような気分にさせられて、落ち込むのだ。これでいいのか世界は、と思ってしまう。もちろん、思ってもぼくに解決策などない。今日はゴーンさんとトランプ大統領にふり回された一日であった。
そういえば、一つ聞きたいことがあった。3種のパスポートは弁護士さんが持っていて、残りの一冊、フランスのパスポートだけ小さな鍵付きの透明ケースに入れられてゴーンさん本人が持たされていたということだけど、そのケースの鍵ってどんなだったのだろう? まさかガチャガチャ鍵じゃないよね? 無理やりこじ開けようとしたらスパイ大作戦みたいに発火して焼却できる装置とかつけておけばこんなことにはならなかったのに。ルノーと日産の世界各国での販売台数に影響がなければいいのだけど…。