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滞仏日記「クリスマスを迎えられるかわからなくなった」  Posted on 2019/12/09 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、四月ごろの日記に「水漏れ」のことを書いた。その後、ここで何も触れてなかったが、上の階の人の食洗器のパイプを業者が修理し、壁に漏れた水が完全に消えたところで(だいたい壁が乾くまでに半年以上の歳月を要する)、子供部屋と廊下と玄関の壁を塗り替える算段であった。上の階の人の保険会社とうちが契約している保険会社で話し合いが行われ、もちろん上の負担で全てを直すのがフランスの仕組みだ。この七か月の間にペンキ屋が何度かやって来て、壁を測定していたが湿度がひかず、塗装が出来ない状態が続いていた。その間にも天井や壁は広範囲でペンキが剥がれ子供部屋は惨憺たる状態になった。ところが先週、息子が「パパ、大変!」と大声をあげたので覗きに行くと、ぽたぽたと水漏れが…。慌てて息子を連れて上の階に行き、「再び水漏れになっているので食洗器をとめるように」と伝えた。正確には通訳の息子が、ぼくが大声で喚き散らしているその横で、冷静に上のご夫婦に事情を説明していた。



壁が乾くのを七か月も待ったというのに、またふり出しに戻ってしまった。今よりももっと酷い状態になるのは間違いない。なんてこった! ぼくは強い口調で、もちろん彼らに怒ってもしょうがないのだけど、原因はうちじゃないので、一応言うべきことははっきりと伝えておくことにした。そのやりとりの途中、廊下の電気がすっと消えかかった。何かが明滅するような感じになり、ぼくらは周囲を見回した。ご主人のジェロームが、まただ、と言った。ぼくも思い当たることがあった。先週、うちの照明が同じような状態になったのだ。それも数回。これは漏電の可能性があるということじゃないか、とジェロームが呟いた。とりあえずこの建物の管理組合に同時に連絡をしようということになった。ところが、この管理組合が酷い。もっともフランスの建物の管理組合の高飛車加減はどこも一緒。「それはこちらの責任じゃない。上の階の連中がちゃんとしてないからこうなったんじゃないの」と返事が戻って来た。ぼくは長文の抗議文、千字くらいの長いメールを書いて、もちろん息子にリライトしてもらい、「それこそ、うちの責任じゃない。ぼくらは毎月家賃を払っているし、被害者で、あなたは管理人なのだから、ただちになんとかする義務がある」と送ったのだ。そしたら一言、「もちろんわかってるよ。(évidemment)」という返事が戻って来た。たった一字、しかも赤字で。

フランスは万事がこんな調子で物事が動く。真っ白で綺麗だった壁は今、見る影もないし、水漏れのしずくが息子の机の上に落下してくる。「じゃあ、あなたたちが見て見ぬふりをして、漏電が原因で息子が死んだら、どうするんですか」と追伸を送りつけてやった。さすがに漏電はまずいと思ったのか電気技師をよこした。電気技師は壁を見上げただけで、「漏電の可能性があります」と言い残して帰って行った。ぼくは階段の途中まで彼を追いかけ、「どうしたらいいの?」と大きな声を張り上げた。「すぐに管理組合に僕から話します。危険だから、濡れた手でコンセントに触れないように」あのね、普段でも濡れた手でコンセントなんか触らないよ。すると先の金曜日、今度は配管工がやって来て、上の階の調査をやりはじめた。彼がぼくの家にもやって来て「このままだと、大変なことになります」と驚くべきことを言ったのだ。感電死よりも大変なことがあるのか…。「ちなみに、それはなんでしょうか?」すると配管工は他人事のような感じでこう言った。
「このままだと天井が抜け落ちるんです」
「は?」



そして、今日は日曜日だが、管理組合からも不動産屋からも大家からも連絡はまだない。ぼくは朝から心配で、息子をまずリビングルームに避難させた。明後日から期末試験なので、彼に余計な心配はかけさせたくない。壁の亀裂は確かに天井を横断しているようにも見える。白い天井のペンキが何か所も剥がれているし、一番酷いところは鍾乳洞のようになっているし、亀裂が数本走っているし、壁が浮いているところもある。七か月もこの状態でぼくらは生活してきたのに、壁の湿度はますます高くなっている。天井が崩落したら、その下で寝起きをしている息子は即死である。水を使うのが怖いので、昼は仲良しの中華料理店で食事をすることにした。階段を降りるとエントランスに上のジェロームがクリスマスツリーを抱えて立っていた。彼は学校の先生なのである。背が高くて眼鏡をかけていて、温厚で、きっと優しい人だと思う。
「いったい何が起こってるのですか?」
「それが、食洗器だけじゃなく、僕らの家のバスタブの下の排水管がどうも壊れているようでね、そこを修理しないことには水漏れは止まらないらしい」
「修理はいつ?」
「壁をぶち壊さないと出来ないので、まず管理組合が見積もりをとるそうです」
「壁をぶち壊す? そんな状態なのに見積もり?」
「ええ、うちのバスタブをどかして、そこから床をくりぬくか、お宅の天井に穴をあけて、配管を」
「ちょっと待って!」
ぼくは思わず胃を押さえてしまった。これからさらに七か月待つだけでも地獄なのに、天井に穴なんかあけられたら、生活が出来ない。ぼくはとびかかるような勢いでジェロームの顔を見つめた。彼は肩を竦めてみせた。
「ムッシュ辻、ぼくらの家は暫く風呂にも入れないんだ」
「管理組合はなんて?」
「あいつらはもうすぐクリスマス休暇に入る」
「ちょっと待って! 天井が崩落したら、息子はどうなる? 感電したらぼくはどうなるんですか?」
ジェロームが申し訳なさそうに肩を竦めながら苦笑いを浮かべてこう告げるのだった。
「それがフランスなんですよ」 

滞仏日記「クリスマスを迎えられるかわからなくなった」 

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