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滞仏日記「息子君、家庭教師になるの巻」 Posted on 2019/11/14 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、寝ようとしていると、携帯が鳴った。あれ、こんな時間にだれだろうと思ったら、マノンとニコラのお母さんからの電話であった。また、あの二人を預かってくれというのかな、と思いながら出ると、お母さんではなくマノンちゃん(13)だった。
「あの、ちょっと宿題で悩んでいて、おにいちゃんにかわってもらえますか?」
どうやら、宿題でわからないことがあるみたいだった。携帯をスピーカーにして、息子の名を呼んだ。
「お~い、マノンちゃんが宿題を手伝ってほしいんだってさ!」
息子が、え、っという顔をしながらやってきた。多分、そういう面倒くさそうな反応をするだろうな、と思ってスピーカーフォンにしておいたのだ。
「ごめんなさい。ちょっと難しくてわからないの」
とマノンが言った。息子が嘆息をこぼしながらぼくの横に腰を下ろした。
マノンが宿題を説明しはじめた。最初は嫌そうな顔をしていた息子だったが途中から、ふむふむ、と真剣な顔つきになった。どうやら、セメントを作るときに起こる炭酸カルシウムと酸化カルシウムの反応についての物理化学の問題のようであった。

まず1問目は、炭酸カルシウムの分解は物理的、それとも化学的な変換ですか?という質問。息子は、カルシウムも炭酸塩も原子だからそれにまつわる反応は論理的に化学的なものだよね。と言った。たぶん、そんな風なことを言ったのだ。ぼくの仏語レベルではよくわからない。その反対を言った可能性もあるけど、とにかく、そういう、物理が死ぬほど苦手だったぼくの想像を上回るやり取りが続いた。
「わ、めっちゃすごい!」とマノンが叫んだ。
それに対して息子は「マノン、授業ちゃんと聞きなよ。授業をちゃんと聞いていれば必ずわかることだよ。学校は勉強をする場所だからね、ぼ~っとしてちゃダメだ。じゃ、寝るね」とそっけない。
「ちょっと待って!寝ないで!次の問題も教えて!」とマノンが食い下がった。ここから結構長いやり取りがあった。当然、ぼくにはチンプンカンプン。仏語の勉強になるから、もう一つの携帯で二人のやりとりを後学のために録音することにした。

ちなみに、この下の写真がマノンの宿題。フランスの公立の中学生は学校から専用のタブレットを渡されるらしい。そのタブレットに学校から毎日宿題が送られてくるのである。それにしても高度な質問である。緑のマーカーの部分が、マノンが分からない箇所…

滞仏日記「息子君、家庭教師になるの巻」

息子君はマノンの質問一つ一つに対して、丁寧に確認しながら、
「これがこうなので、こうでしょ? そしたら、どうなる? 」と、答えを教えるだけでなく、その答えを導きださせるような教え方をしはじめたのだ。まるで家庭教師の先生といった感じ。もしかしたら、先生にむいているかもしれない、と親バカなぼくは思ってしまった。いつもは生意気なマドモアゼル・マノンが、おとなしく従っている。へ~となんだかにやにや…

「800度で炭酸カルシウムを熱したらその物質は変換するでしょ?オッケー?
炭酸カルシウムは酸化カルシウムに変換するよね? それが化学反応なんだよ。だからさ、わかるかい?…」とこんな風に息子はマノンちゃんに教えている。
「ウイ、ウイ」とマノンが礼儀正しく答えている。
「で、炭酸カルシウムを熱したら酸化カルシウムと二酸化炭素が生まれるわけじゃない…」
「ウイ」
「問題に書いてある21トンの炭酸カルシウムを加熱したら15トンの酸化カルシウムが生まれるということは、残りの6トンは何かわかるよね?」
するとマノンが、恐る恐る、
「二酸化炭素…」
と答えた。
「Voila.(ほら) 出来たじゃん」
「wow! 」
「わかったね。マノン、じゃ、寝るよ、またね」
息子は椅子を引いて立ち上がった。するとマノンが大きな声で、
「メルシ~、おやすみなさい、先生、すごいです! ありがとう」
と声を張り上げて言った。息子君は、
「Je sais je sais(しってる、しってる)」
と笑いながら自分の部屋に戻って行ったのだ。

もしかすると、そろそろ息子に家庭教師のアルバイトの話しがくるかもしれない。或いは、マノンがその最初の生徒になるのかもしれない。ささやかだけど、日常の中に、こういう小さな幸せが隠れているのであった。長生き万歳。

滞仏日記「息子君、家庭教師になるの巻」