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滞仏日記「日本のいじめ社会に激怒する」 Posted on 2019/10/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、神戸市立東須磨小学校での教員4人による若い教員へのいじめのニュースに怒りがおさまらない。その写真や映像やこの教師を名乗る者らがしたことすべてにあきれ果て、日本が心底心配になった。この体質がこの小学校だけの問題なのか、じつはもっとあちこちで起きていることなのか・・・。

この加害者の一人である女性教員はこともあろうに授業中に子供たちに対して自分たちがしたことを面白おかしく語ったという。しかもいじめの相談を受ける立場の先生だったというから、壊れている。子供たちへの心的影響が心配でならない。さらには校長がこの件を知っていた可能性があるというニュースも読んだ。ここで、ぼくの怒りがおさまらないのは、こんな教師たちがいる世界からいじめがなくなるわけがないじゃん、というただ一点だ。なんでお前ら、教師になるんだよ!

そもそも、フランス語にいじめにぴったり相当する言葉がないので、かつては驚くべきことに日本語の「いじめ」がそのまま通じていた。ミスターサンデーのVTRが流れている最中に、宮根さんが「辻さん、フランスでいじめってどうなんですか?」と質問された。生放送中だったので、きちんと答えられなかったが、もちろん集団社会なので無傷ではいられないけれど、日本的な集団が個人をとことん破壊するようないじめは滅多に見られない。なぜかというと揉めても、集団対個人にはなかなかなりにくい。個人、個性の強い国だからか、一人を集団で攻撃するということがあまりない。かならずやられている側の味方になる連中が現れるし、みんな声をあげ、見て見ぬふりをするということがない社会だったりする。

その代わり、もちろん、個性が強いからこそいじわるをする嫌味な奴は多いし、ぼくもフランスの女性編集者にいじわるされたことがある。しかし、そのいじわる合戦は周りを巻き込まず一対一で行われることが多い。いじめは陰湿だけど、いじわるというのは目に見える攻撃なので、どっちも嫌だけど、精神的にはカラっとしたいじわるの方が楽だったりする。(前に書いた絶交の話に通じるので、参照されたい)

日本の場合、児童虐待があると近所の人や子供本人が児童相談所や警察にまず相談をし、じわじわと時間をかけて判断しながら親の虐待を突きとめる。フランスの場合、子供を叩くような音や悲鳴が聞こえて、ちょっと普通じゃないと思ったら、近所の人がまず第一に必ずそこへ出向き、「おい、大丈夫か? なんかあったか」というような介入を試みる。結構しつこい介入なのだ。その段階である程度、住民レベル間で虐待が大きくなるのを防ぐ効果を生んでいる。とにかく、フランスは子供を守る。

よく目撃することだが、交差点を渡ろうとしている盲人の人がいると、その次の瞬間には交差点中にいる人たちが駆け寄って、その人を反対側まで連れて渡る。これがフランスでほんとうによく見かける光景なのだ。はじめてみた時はびっくりした。誰かがやってくれるだろうと思って待つ人はほぼいない。ぼくなどはいつも明らかに一歩以上遅れてしまい、その行動力に差を感じる。しかも、渡り切ったら、全員、すぐに方向を変えて消え去る。

話が少しそれたが、フランスで虐待を防いでいるのは、周りが恐れることなく、即座に「虐待してないか?」と声をあげる社会の力だと思う。大事件になる前に気が付いた人が勇気を出せばいいということに尽きる。

親が幼い子供を虐待し殺すというニュースがなぜか日本で続いている。それで胸を痛めていたが、ついに教師のグループが個人の教師をいじめる時代になったか、とこの末期的な状態に、子供たちの未来を考えると胸が痛すぎる。誰が子供たちを守るというのだ!

滞仏日記「日本のいじめ社会に激怒する」