JINSEI STORIES

滞仏日記「ぼくの中の神サマ」 Posted on 2019/09/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、知り合いのシモンご夫妻を自宅に招いて、手料理をふるまった。彼らはイスラエル系フランス人である。知日派で、シラク大統領じゃないけれど、日本のことはなんでもよく知っている。でも、ぼくはイスラエルのことはあまりよく知らない。高校生の頃にイザヤ・ベンダサン(山本七平)の「日本人とユダヤ人」を読んだことがある程度の知識。デザートを食べ終わって、ワインが一本空になった時、なぜか、宗教の話がはじまった。
「ぼくはユダヤ教のことをあまりよく知らないのです」
すると、ムッシュが、あの、ぼくはユダヤ教徒じゃありませんよ、と言った。

「辻さん、実はぼくは神を信じていません。そういう人のことをアテといいます」
フランスだけじゃなく、イスラエルの国籍も持つ彼らが神を信じていないというので、ぼくはなぜかちょっと驚いた。でも、フランスには様々な宗教を持つ人がいるし、彼ら同様、無神論者も結構いる。
「ごめんなさい。へんなことを聞いてしまいましたか?」
「いいえ、宗教の話をしていたので自然な流れですね。ぼくはオープンにしているので、アテであることを公言しています」
すると、マダム・シモンが、
「私はアグノスティックなんですよ」
と言った。ぼくがきょとんとした顔をしていると、
「神が存在しているかどうか、判断がつかないでいる人のことをアグノスティックというの」
と付け足した。
「でも、ぼくらはよくエルサレムに行き、「嘆きの壁」の前に立つんです。すると、不思議な気持ちになります。神を信じてないと言い切れる自分なのに、その前に立つと思うことがいろいろとあって、・・・。不思議なことですね」
とムッシュ・シモンが言った。

イスラエル人がみんなユダヤ教徒とは限らないんですよ、とムッシュが付け足した。そして、イスラエルの人口の20パーセントはユダヤ教以外の宗教を信仰しています、と続けた。

彼らが帰った後、ぼくは食器を洗いながら考えた。祖父が熱心な浄土真宗の仏教徒だったし、ぼくは幼い頃から仏教の本を読むのが好きだった。でも、今日までぼくは特定の宗教を持ったことが一度もない。息子をカトリックの学校にいれた理由もよくわからない。その息子も「今の学校は大好きだけど、自分はカトリックの信者じゃないし、カテシズム(キリスト教学)を受けることはないよ」と言い切る。(フランスの公立校では1905年より宗教を学校教育に取り入れていない)

何かの本で読んだが、日本は無神論者の割合が世界で二番目に多い国なのだとか。一番は中国である。でも、きっとぼくは心のどこかで神はいると思っている。だからアテでもないし、アグノスティックでもない。しかし、ぼくは宗教を持たない。そして、ぼくがイメージする神とは、人間の恰好をした神様というわけじゃなく、よくわからないけど、神という定義におさまらない、目で見てわかるような神様という存在でもない超越した何か・・・。それが何か、ずっとわからないまま生きてきてしまった。ずっとわからないまま、一生を終えるかもしれない。ぼくのような人間はなんと呼ばれるのだろう? そのことをシモン夫妻に聞きそびれてしまった。

※この日記を書き終わった後、フランス語のネットで調べてみた。超越する存在=神はいる、と思ってる人のことをフランスではデイストと呼ぶらしい。日本語では「理神論者」と書くようだ。

滞仏日記「ぼくの中の神サマ」