JINSEI STORIES
滞仏日記「福島のサムライがパリに立った」 Posted on 2019/09/12 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、武士くん(本名、松永武士)と出会ったのは東京の欧風居酒屋だった。たまたま隣り合わせになったのだ。ぼくは陽気に酔うタイプだから、居酒屋でよく人と知り合う。このDSの構築のチャーリーとは西麻布のバーで知り合った。(わきが甘い、と事務所の人にはよく叱られる)武士くんに、ぼくはパリに住んでいるよ、と言ったら、来週行くんですと言うので、「あ、来週ライブだから、じゃあ、おいでよ」と言ったら本当にやってきた。前回のノートルダム寺院のためのチャリティコンサートの会場にいたのだ。その時に「9月にまた来ます」と言い残した。「なんで?」「メゾンエオブジェに出品するからです」「あ、じゃあ、飯でも食うか」と約束したら、本当にやって来た。1月と9月にパリで開催されるデザインとライフスタイル分野の見本市のことを「メゾン・エ・オブジェ・パリ」と呼ぶ。これはデザインを目指す人たちの憧れの見本市でもある。武士くんは福島の老舗陶芸メーカーの四代目で、30歳の青年であった。
待ち合わせのカフェに陶器を抱えた青年がやってきた。「商談があるんです」と言った。「すごいね、世界の見本市によく出品できたね」「大変でした」本当に武士のような顔をしている。今時、こんな子がいるんだ、というくらい武士顔だった。ぼくの息子でもおかしくない年齢だからか、なんかほっとけない。「震災のあと、世界に出ようと思ったんです」といきなり言った。四代目と言っても、大震災で彼の出身地相馬は立ち入り禁止区域に指定された時期があった。「でも、終わりたくない。世界に出たいと逆に逆境を乗り越えて思ったんです」でも、そうは思っても、パリで勝負をかけるのは簡単なことじゃない。勇気も根性も気迫もお金(航空券込みで300万くらい)も必要だ。彼は食べるものも節約してこの出展費用を捻出したのだった。ちなみに、ぼくが残したオムレツを全部食べてしまった。節約しているんです!
「辻さん、俺、震災後、ますます、世界で自分が作ったものが通じるか試したかった」
なんだか、感動した。パリのアジア人留学生はほとんどが中国、韓国、東南アジアの子たちだ。20年前は日本人の留学生が結構いたが、ここ最近見なくなった。「でも、これも震災を経験したからかもしれない。世界に出るのは逆に今しかないと思ったんです」と日本の武士は言った。「おお」とぼくは唸った。「原発事故のせいで福島の土を使えなくなりました。そこで愛知県の土を福島に持ち込んだのです。相馬の工場はもう使えないので、白河に新しい工場を建て、これまでの伝統技術も生かしつつ、新しい陶器の作成にとりかかったんです」と武士は悔しそうに、しかし毅然と希望に向かって吐き捨てた。世界を意識したのは、彼が25歳の時のことだったという。
江戸時代から器の中に空間を作り、冷めにくいぐい吞みを作っていたんです。ぼくは先祖のこの技術を現代に活用したいと思ったんです、と武士は言った。ワイングラスは形状によって味が違う。日本酒もそれができないか、と考えたのだという。そして、この青年は「IKKON」というブランドを開発した。一献のIKKONである。さすが、サムライだ。
「武士くん、君はガッツあるな」
「いや~。(武士が笑うとこういう顔になるのか、と思うような武士笑顔であった)」
「勝海舟みたいだな、どんどん世界に出ていけ」
「出たいです。先祖代々の技術を震災で失いたくないんです。この技術を世界に届けたいんです。福島の技術で世界を驚かせたい。出来ますか?」
「出来る。やろうと思えば、やれる。俺は還暦だけど、君はまだ30だ。未来しかないじゃないか、やってみろよ。還暦の俺でも、まだ世界を目指してるんだ。何を迷うことがあるのか、青年!」
彼は笑った。なんだか、ぼくはこうやって日本の青年を応援できることが嬉しくてしょうがなかった。まっすぐな真面目な青年だった。この青年が世界に出られるように見守りたいと思った。彼が開発したぐい吞みで日本酒や焼酎で飲むと、これがぜんぜん違う味に変る。5日間で300社のディストリビューターと名刺を交換したのだという。このガッツ、絶対に世界に通じるとぼくは思った。
デザインストーリーズで応援したい。このサイトを立ち上げたのはきっとこういう青年たちを支援したかったからだと思った。そうだ、日本人よ、がんばれ! 行け、武士くん。絶対に君の仕事は世界をうならせることが出来る! 60のオヤジはマジ思うのだった。