JINSEI STORIES
滞仏日記「ノルマンディ上陸作戦」 Posted on 2019/08/21 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、パリの自宅でとくにすることもなく毎日ぼんやりと過ごしていた。息子に「どう? そっちは?」とSMS送っても全然返事が戻ってこない。あれだけ送り出す時に「連絡よこせよ」と念を押して、「うん」と返事してたくせに。この調子で大人になっても頼りのない子になるのだろう。思えば、ぼくもそうだった。家を出て東京でバンド活動をし始めて以降、母さんに頼りどころか電話の一本もしたことがない。お金がなくなると「金ナイ、オクレ」と電報を打っていた。電話だとなんとなく頭を下げにくいから、電報なのだった。今思うとうちの息子よりも酷いじゃないか!だからたまに福岡でライブがあると母さんが楽屋まで押しかけてきて、じっと、穴があくまで顔を覗き込まれてくすぐったかった。息子もきっとそうなる。これは辻家の宿命に違いない。
一人でランチを食べていると、オディールからSMSで写真が送られてきた。息子たちがプールで泳ぐ風景、ゴルフをやっている写真などである。息子とロマン君の他にクラスメイトのアラン・フィリップ君も一緒だった。パリ居残り組の子供たちをオディールはロマンのために集めて、楽しい思い出を作ろうという企画のようだ。けれども、ゴルフクラブを持つ息子は冴えない顔をしている。本当はパリにいて、ビートボックスの仲間たちと道端で演奏したかったに違いない。こういうハイソなフランス生活が彼はあまり好きじゃないので、なんとなく、鬱鬱として日々を送っている様子が笑えるくらい伝わってくる。(彼は断れない性格で、そのせいで結構な確率でこういう事態が起こる)それにしてもオディールの別荘はゴージャスだ。地中海まで、車で30分という立地と聞いた。溢れる南の太陽、プールの水面の輝き、嗚呼、ただただ羨ましい。
午後、オーチャードホール還暦コンサートに向けて、歌とギターの練習をしていると、知り合いのステファンから電話が入った。「パリにいるなら、料理をしにノルマンディまで来ないか?みんな君の和食を食べたいと言ってる。部屋が余っているからよければ息子さんと好きなだけ滞在してくれて構わないよ」願ってもないチャンスの到来である。そして、こういう時はいいことが重なるものだ。日仏カップルの別の友人からノルマンディにいるから来ない、と誘いがあった。こちらは一昨日の日記を見て、寂しそうだからとのお誘いであった。ステファンとも間接的な知り合いだから、もしかしたら、「寂しがっている辻情報」が彼らを通してステファンに伝わったのかもしれない。代り映えしないパリでの一人暮らしをこのままあと10日も続けていると煮詰まりそうだ。「ステファン、ちなみに、そこって歌っても大丈夫?」「ああ、もちろん。君が泊まる離れは下がガレージだから、真夜中でも歌えるよ」しめた。歌の練習が出来る。よし、ノルマンディ上陸作戦だ。