JINSEI STORIES

滞仏日記「最後の授業」 Posted on 2019/08/04 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、家庭教師Sさんは、もともと赤ん坊だった息子のベビーシッターさんからはじまり、息子が小学校にあがってからは日本語教師となった。もともとは企業で秘書さんをやっておられたのだとか。退社されてからはその語学力をいかして在仏日本人家庭のお子さんたちの日本語指導の仕事を続けられてきた。おっとりとした、映画なんかによく出てくる年配の家庭教師さんそのもので、安心感のあるご婦人であった。どういう暮らしをされていたのか、存じ上げていないが、数多くの日本人のお子さんたちの成長を見届けてきたのであろう。彼女が使う日本語教材は実に年季の入ったもので、大勢の子供たちがそこから言葉を学んだ形跡がそこかしこ、四隅や、折り目や、引かれた赤い線、文字の掠れ具合などに、溢れていた。ご自身は一人暮らしのようで、今回は、年齢のこともあり、日本に帰国されるとのことだった。そして今日はその最後の授業の日となった。

よく覚えていることがある。不意の離婚となり、3人だった家族が2人となった時、広すぎた家の中で僕と息子は暗くうつむく毎日を過ごしていた。そこに頻繁にSさんがやって来て、
「私に出来ることはなんでもしますので、辻さん、少しは休んでください。そして一日も早く元気になって」
と言い続けてくださった。なぜか、あの当時、僕らの周りの人が離れて、幸福からは遠い暗い生活の中にあったが、Sさんは寄り添ってくださった。僕は情けないことに途方に暮れていて、これからのことを考える余裕さえなかったのだ。そんな時代、Sさんが息子の遊び相手をしてくれたり、日本語を教えたり、あるいは家族の役目を担ったり、本当に心強い味方であった。

息子は僕が算数や日本語を教えようとすると逃げ出したが、Sさんの授業だけはまじめに受け続けた。こういうと失礼かもしれないが、彼にとっては祖母のような存在だったのかもしれない。Sさんの日本語はどこか懐かしく、とてもやさしく、とっても品があった。その言葉遣いを学んだ息子の日本語は、フランス生まれなので決して上手とは言えないが、敬語も丁寧語も、日本で生まれた子たちに負けないほど使いこなすことが出来る。この十数年、Sさんが祖母のように彼に寄り添い教えてくださった賜物であろう。血のつながりもないのに、苦しんでいる人たちを見放さず、寄り添う、これこそが日本人の情だと思った。

実は、息子が一番嫌いなのが「別れ」なのである。彼は人と別れるのを本当に嫌がる。だから、「バイバイ」を言わない子になった。彼の最後の言葉は「またね」と決まっている。グッドバイは太宰治の小説だったが、
「À bientôt(またね)」
は実にフランス的な別れ方でもある。アビアント、と発音する。僕はこのアビアントがとっても好きだ。永遠の別れをするときにはアデューを使う。普通のお別れの時のさよならは、オルヴォア。若い子たちはサリュと声を上げる。日本語だと、じゃ、みたいな感じかな。息子は仲間たちにはサリュだけど、Sさんには「またね」と言った。そこには再会の希望が潜んでいた。僕はお別れ会をすべきか、悩んだ。でも、仰々しいお別れを息子は嫌う。だから、僕はまたしてもお弁当を拵えることになる。思い出に残る辻家の味を持って帰ってもらいたい。レモンクリームのペペロンチーノにミントと蒸しエビを添えた夏のパスタをお弁当箱に詰めて、最後に手渡した。僕と息子はSさんが帰った後に、二人でSさんの思い出話をしながら食べた。窓越しに涼しくなった欧州の夏空が広がっていた。ミントとレモンが効いた、夏らしいさっぱりとした酸っぱいパスタであった。そして、夕方、Sさんからお礼のメールが届いた。

お弁当、とてもおいしくいただきました。
これからも折りに触れ、お会いできる機会が
ありますように。 
 

滞仏日記「最後の授業」