JINSEI STORIES
滞仏日記「さよなら、アントワン」 Posted on 2019/06/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、上の階のアントワン君(5)が引っ越すことになった。ムッシュ~・ジャポネ~といつも通りの反対側から僕のことを呼んでくれるこの界隈で一番小さな友達だった。ある日、彼は開いているドアから入って来て、ギターの練習をする僕の前に座って動かなくなった。ある日、彼は僕の家の玄関前に置いてあるかごの蓋を下の階の玄関にぶら下げ、いたずらした。ある日、彼は僕がギターを弾いていると大きな声で「ムッシュ~」と天井の向こうから必死に叫んでいた。ある日、いや毎日、彼は元気いっぱい、ドタドタドタ、と走り回っていた。ある日、彼は交差点の反対側からお母さんや妹と一緒に僕に手を振った。ある日、彼は角のカフェで歌っていた僕のところにやって来て葉っぱをくれた。ある日、ヘルメットをかぶった彼はお父さんのバイクから降りてきて、ムッシュ~、ボンジュール、と笑顔で言った。ある日、彼は僕の前に立ちふさがって「日本は遠いの?」と訊いてきた。ある日、彼は登校前に階段を下りながら、ムッシュ~、ジャポネ~、ポネ~、ポネ~と勝手なメロディを拵えて歌っていた。ある日、彼は「僕たちね、引っ越すことになったんだよ」と言った。
「本当なの?」
と僕は後ろにいる彼のお母さんに訊いた。
「ええ、本当なのよ」
「いつ?」
「7月の頭かな。フランスを離れるのよ」
「え? 僕は明日、日本に出発するんだよ」
アントワンがなんとなく寂しそうな顔をした。僕は子供と犬と猫には愛される。
ということで出発前の慌ただしい時間をやりくりして、僕はアントワン君と彼の妹のロクサンヌちゃん(2)にプレゼントを買いに走った。お別れのメッセージの絵を描いた。僕が次にパリに帰ったら、そこにはもう彼らはいない。上の階を走る足音も聞こえなくなる。ムッシュ~・ジャポネ~と街角で声を掛けられることもなくなる。何か、心にぽかんと穴があいたような寂しさを覚えた。アントワン君は絵本なんかに出てくる本当に愛らしいキャラクターという感じ。人懐っこくて、好奇心旺盛で、頭がよくて、何より、いい子だ。きっと僕はそこに息子の幼い頃の面影を見ているのだと思う。息子も昔はアントワンのようないたずらっ子だった。今はすっかり大人になってしまったけれど・・・。
僕の心の中にはいつも少年がいる。それはきっとアントワンのような子で、その子の物語をいつも僕は頭の中で空想して生きている。子供の未来がこの世界を作るのだと思う。世界中の幼い子供たちが虐待など受けないで、みんな笑顔で無邪気に楽しく生きられる世界であってほしい、といつも願っている。さよなら、アントワン。君が次の街で元気に育つことを祈っています。