JINSEI STORIES

滞仏日記「20年前に食べたあのミラネーゼの味を探し求めて」 Posted on 2019/06/03 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、暮れなずむ時刻、セーヌ川河畔で短いテレビのインタビューを受けた。人々が河畔の堤防に座り、ワインやパンをつまみながら、夕涼みをしている、なんとも喉かな光景の中でカメラが回った。尖塔を失ったノートルダム大聖堂はあの日の悲惨な姿を思い出せないほど、夕景の中で凛としていた。
 

滞仏日記「20年前に食べたあのミラネーゼの味を探し求めて」

その後、DSスタッフと編集会議を兼ねて食事でもしようということになり、レストランを探したのだけど、日曜日だったのでめぼしい店が見つからなかった。なぜか、その時、ふっとオデオンでよく食べたミラノ風カツレツの味を思い出した。あそこなら日曜日でもやっているかもしれない。僕らはオデオンを目指すことになる。パリに通いはじめた30年ほど前も、その後、パリに移り住んだ直後も、僕はこの地区で寝泊まりをした。アパートを借りていたこともある。今では有名になったが、エディターズというカフェが出来たばかりの頃、その斜め前の建物にも一時期住んでいた。イボーとか、ブレッツカフェとか、毎日のように仕事に煮詰まると建物から這い出して、僕はテラス席に陣取り温めた。近くにイタリアンヴォーグの表紙などを撮影していたカメラマンのサイクサ・サトシとモード界のプロデューサーミカちゃんが住んでいたのでよくお茶をした。この二人はいつも不思議なファッションをしていて、本当にかっこいい日本人カップルだった。誰にも媚びないし、独創的だし、いい時代の日本の感覚を持ち続けた二人で、まるで映画の主役のようだった。

僕の最初の本を出版してくれたメルキュール・ド・フランスの本社もその角にあった。名編集者のマリ・ピエール・ベイさんとの最初のミーティングは出来たばかりのカフェ・エディターズだった。当時、フェミナ賞を受賞したばかりの僕の単行本が天井に飾られてあった。気を聞かせてくれたのだと思うけど、嬉しかった。とにかく編集者やアーティストだらけの街で、小さな画廊も点在する。サトシも十年ほど前からついに画廊の経営者になった。
 

滞仏日記「20年前に食べたあのミラネーゼの味を探し求めて」

当時、僕は小腹がすくと、角にある小さなイタリアンバールに顔出し、テラス席でカツレツをつまみ、ビールを飲んだ。身体の大きな太っちょの大将がそこのオーナー兼シェフで、僕は彼にミラネーゼの美味しい食べ方を教わったことがある。
「いいかい、坊や。こういうものは高級品じゃないんだから、塩を振りかけてだな、手でつまんでサクっサクっと喰うに限るんだ。イタリアのビールで胃に流し込む。これが最高」
カイザー髭を蓄えた大男だったけど、優しいイタリア人だった。そこで食べるミラネーゼの気取らない素朴な味が好きだった。高級店じゃないけど、でもオデオンらしいスマートな店でもあった。20年ぶりくらいに顔を出し、ミラネーゼを注文した。同じようなものが出てきたけど、ちゃんとお皿に盛りつけられており、ちょっとだけ高級な観光的な感じに変化していた。ギャルソンを捕まえ、
「つかぬことを訊くけど、ここは20年前とオーナー一緒?」
と訊いた。
「ええ、ずっと同じ一族で経営してますよ」
「そうなんだ。僕はここのオヤジさん、ほら、太って、カイザー髭の」
「ああ、オーナーです」
「彼にミラネーゼの美味しい食べ方を教わったんだ。彼とここで一緒に飲んだこともあるよ。おじさんどうしてるかな? お元気?」
ギャルソンは笑って、もう、とっくに、と言った。
「20年前でしょ? 当時すでに70才を超えていたんで。今はその奥さんがここの経営者です。僕らが後を引き継いでます」
微笑んでいた僕の顔がすっと止まった。
「そうか、20年の歳月が流れた。街が変わらないから、つい昨日のことのように思ったけど・・・」
僕は立ち上がり、交差点まで数歩歩み出ると、店を振り返り、それからオデオンの懐かしい光景を見回した。僕ももうすぐ還暦になる。時間だけが流れていく。でも、パリは少しも変わらない。ここで生きて、ここで死んでいく人間だけが移り変わっていく。それがこの世界というものだ、と僕は思った。ノートルダム大聖堂もきっと元通りに再建されるだろう。でも、百年後、今ここにいるほとんどの人はもういない。この世界を構成するデザインの中にこそ僕らの精神の遺伝子が宿っている。
 

滞仏日記「20年前に食べたあのミラネーゼの味を探し求めて」