JINSEI STORIES
滞仏日記「浪江町とノートルダムが繋がった熱い夜」 Posted on 2019/06/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、8日前、東京を離れる日の前日の夜に僕は都内の行きつけの小料理屋でたまたま居合わせた感じのいい二人の客と酒を酌み交わした。この二人は東北大震災の津波で大規模な被害を受けた浪江町の出身だった。一人は歴史的な酒蔵を営んでいた鈴木酒店の鈴木大介さん。もう一人は100年の歴史を誇った松永窯の四代目の松永武士さんだった。鈴木さんの蔵は海側の請戸地区にあり津波が直撃、松永さんの方は山側の大堀地区で原発事故により帰宅困難地区に指定され、いまだ戻れていない。この二人との話は夜中まで続いた。鈴木さんは山形に蔵を移し、松永さんの方は福島県内の白河に近い西郷村へ窯を移さなければならなくなった。それでも歴史ある稼業を二人は未来へつなげるために頑張っている。その居酒屋に置かれていた鈴木さんの酒は売り切れになっていて、僕は飲むことが出来なかったが、松永さんのところで作った器が棚にあり、そのつややかな手触りが僕の記憶に残った。別れ際、「僕は来週、パリでノートルダムのためのチャリティコンサートを開くのです」と言った。「2011年の東北大震災の直後、その2日後に、ノートルダム大聖堂で3千人のフランス人が集まり福島のためにミサを行ってくれた。しかし、そのノートルダムか大火災に見舞われ、在仏日本人に何かできないか、と、その時のお礼を込めて、ライブをやることにしたのですよ」と伝えたところ、松永さんが驚くべきことに、「僕も来週からパリです。自分の窯で作った器を売り込みにパリに渡るんです」と言い出した。僕は即座に、ライブに招待したい、と告げた。何かが繋がった、と思った瞬間であった。
とにかく昨夜は熱い夜となった。大勢の観客で埋まったパリのライブハウス「ラ・ブール・ノワール」は一曲目からヒートアップした。友人の居合の名人、松村まさと氏が一曲目のソーラン節で僕と一緒にステージに立った。刀を漁師の竿に見立てて振り回して踊るソーラン節は迫力があった。彼は中盤、ユリの花を持って再び舞台にあがった。今度は面をかぶって歌舞伎のような柔らかい舞いを踊ってノートルダムへの献花ダンスとした。
2時間、ノンストップでのライブだった。オールスタンディングの会場には老若男女問わず日本人フランス人が入り乱れ大盛り上がりとなった。最近ずっと一緒にやっているピアニストのエリック、ドラムのジョゼとの緩やかな掛け合いもいい感じになってきた。終演後、フランス人や日本人の友人らが楽屋に押し寄せ、興奮気味に感想を口にしたけれど、僕は全力を出し切っており、笑顔で頷くのが精いっぱいだった。その楽屋の一角に、見覚えのある顔があった。松永武士さんであった。「こんにちは」と言われたが、最初はだれかわからなかった。慌ただしい日本出張の最後の夜にふらりと入った居酒屋で隣り合わせた青年なのだから、うろ覚えでも仕方がない。数秒して、あ、君、と僕は声を張り上げた。僕はそこにいるミュージシャンや仲間たちに彼を紹介したのだ。まるで古くからの知り合いを紹介するような感じで・・・。
かくしてノートルダムの大火災から一月半後、僕はノートルダムへの感謝を込めたチャリティコンサートをやり終えることができた。意味のあるライブが出来たと思う。何よりも集まってくれたフランス人たちから本当の連帯を感じた、とお礼を言ってもらえたことが嬉しかった。行きつけのバーのバーテンダー、ロマン君はその感動をずっと語り続けてくれた。実はフランス語がよくわからず彼が何をそんなに興奮しているのかわからなかったけれど、若い人たちにもちゃんとメッセージが届いたということであろう。松永さんが別れ際、鈴木さんから預かってきたという焼酎を僕に手渡した。家に戻り、静かなサロンで、僕はそれを口に含んだ。しかし、それがあまりのうまさで、ライブの後だというのに手と口がとまらなくなった。これが伝統の味というものなのであろう。それを受け継ぎ、あのような過酷な条件の中でその味を守り続けているこの若い二人に僕は心を奪われてしまった。ノートルダムが僕と彼らを繋いでくれたのに違いない。